――己の
このラドラの問い。
最終的にはザグロは『勝つ』――即ち『抗う』という解答で現された。
ザグロは荒く息を吐き、膝をつきそうになる足を必死に支えるのに精一杯だった。
「よくぞ打ち勝った……魔族の試練に……」
ラドラの声が、まるで遠雷のように洞窟の奥に響いた。
砕け散った鎧の断片は緑炎の灯りにかすかに光を宿し、最後の余韻を漂わせていた。
「レオフレッド……否……ザグロ……今はそう呼ぼう」
ザグロはびくりと肩を震わせる。
レオフレッドという音、それはかつての勇者として呼ばれていた音だった。
それは失われたはずの記憶の断片の一部、あるいは自我だった。
けれど、その響きが心臓の奥の黒い鎖を軋ませ、ザグロの胸をざわつかせる。
そのざわつきは「思い出してはならぬ」と「さもなくば黒い沼にお前は沈む」という警告のようであった。
「気をつけろ……我が妹……リゼルダに……」
ラドラの声は途切れがちに掠れ、ひび割れた鎧の奥から、兄としての悔恨が滲み出ていた。
「……俺も……男として……見てしまっていたからな……リゼルダを……」
ザグロの指が、剣の柄を強く握りしめる。
(リゼルダ)
甘く、狂おしいほどの支配の視線、リゼルダの紅玉の瞳が脳裏に浮かぶ。
その姿は恐怖か、それとも――。
「リゼルダは『魔王の業を背負った女』だ……欲に満ち、渇きに喘ぎ……ただの魔姫ではない……己を見失えば呑まれるぞ……」
がしゃり、と胸甲が砕け落ちる。
「抗え、抗うのだ。お前は俺達を二度も斃し……勇者と呼ばれた誉れ高き男……自分の意志を持て……お前は人形ではない」
ラドラは最後の言葉を残すと、鎧の破片から複数の光がふわりとこぼれ出た。
それは魔王の第三十九王子と魔物達の魂か――微かな残響のような輝きだった。
絡み合った光の糸はそっとほどけ、夜の闇に吸い込まれるように消えていく。
――洞窟に残されたのは、深い静寂だけだった。
(ラドラ……いや、俺はあいつらと命を削り合ったことがある)
ザグロは荒い息をつき、暫くその場に立ち尽くした。
勝利は得た。
だが、胸の奥には妙なざわめき、不快な残像が焼き付いていた。
(……己を見失えば呑まれる……か……)
ザグロはゆっくりと目を閉じた。
心臓の奥、かすかな痛みが波のように響いてくる。
それはただの肉体の疲労ではなかった。
頭の奥に渦巻く記憶の断片――勇者だった頃の声、戦場の景色、仲間の笑顔、絶望の叫び。
けれど、その全ては黒い霧に覆われ、触れようとすれば指の間から砂のようにこぼれ落ちていく。
(俺は誰だ……レオフレッドか、ザグロか……それとも……?)
剣の柄を強く握り、ザグロはひとつ深く息を吸った。
前を見据える。
緑の炎が揺れる洞窟の出口、その先には冷たい夜と待つ者がいる。
――紅玉の瞳を持つ女、魔姫リゼルダ。
甘い微笑み、狂おしいほどの所有欲、身を焼くような支配の手。
彼女は自分を「夫」と呼ぶ。
その呼び名が胸を熱くも、冷たくもする。
その矛盾が、
(ラドラといったか……お前は最後に言ったな。俺に『抗え』と……)
ザグロはゆっくりと歩を進めた。
鎧の破片を踏み、緑炎の明滅の中を一歩、また一歩と出口へ向かう。
外から流れ込む冷たい風が、汗に濡れた頬を撫でた。
胸の奥底が高鳴る。
それは戦いの興奮ではなく――これから対峙するものへの、未知の騒めきだろう。
(己を見失えば呑まれる……だが『抗う』ということは『見失わないこと』と同義だろうか……?)
ザグロはわからなかった。
だが、歩みを止めることはない。
今は進むしかないのだ。
そして――。
洞窟を抜けた先、赤土の荒野に立つ黒き影。
漆黒のドレスが夜風に踊り、紅玉の瞳がゆっくりとザグロを見つめる。
その唇が静かに動く。
「おかえりなさい、ザグロ」
「ああ……リゼルダ」
その名を口にした瞬間、ザグロの胸奥に熱と冷たさが入り混じるような感覚が走った。
彼自身、その響きに戸惑い、僅かだが胸を締めつけられる呪縛の音に聞こえた。
一方で、リゼルダの胸も静かに震えていた。
どれほどこの瞬間を夢に見ただろうか、どれほど心が干上がるほど渇望し、孤独の淵で待ち続けただろうか。
紅玉の瞳の奥で微かに揺れたのは、喜びだけではなかった。
ほんの小さな影。
彼がいつか、この声の奥に潜む真実を見抜き、手を離れてしまうのではないかと。
彼女自身さえ意識しない、必死の恐れと願い。
それを覆い隠すように、リゼルダはそっと唇を震わせて微笑んだ。
「私の名前を……初めて呼んで下さったのね」
更にリゼルダは甘く、狂おしく、底の見えない声を演じる。
「嬉しいわ、あなた」
それはまるで虚構の台詞、けれどあまりにも現実を縛る力を持った言葉。
それは一流の女優のように、それは一流の政治家のように、それは一流の宗教家のように。
だが、その芯には幼子のような必死の祈りが隠されていた。
言葉という呪文が、ザグロの胸奥で黒い鎖を軋ませ、逃れられぬ絆のように響いた。
(俺はどうして、彼女にこんなにも惹かれるのだ……?)
微笑むリゼルダを前に墜ちそうになる。
すると、ザグロは胸の奥底で冷たい気配を感じた。
――忘れるな、抗え。呑まれれば、お前は消える。
それはラドラが残した、最後のささやきだった。