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ep11.ラドラの告白

 ――己のカルマに飲まれるか、抗うか。

 このラドラの問い。

 最終的にはザグロは『勝つ』――即ち『抗う』という解答で現された。

 ザグロは荒く息を吐き、膝をつきそうになる足を必死に支えるのに精一杯だった。


「よくぞ打ち勝った……魔族の試練に……」


 ラドラの声が、まるで遠雷のように洞窟の奥に響いた。

 砕け散った鎧の断片は緑炎の灯りにかすかに光を宿し、最後の余韻を漂わせていた。


「レオフレッド……否……ザグロ……今はそう呼ぼう」


 ザグロはびくりと肩を震わせる。

 レオフレッドという音、それはかつての勇者として呼ばれていた音だった。

 それは失われたはずの記憶の断片の一部、あるいは自我だった。

 けれど、その響きが心臓の奥の黒い鎖を軋ませ、ザグロの胸をざわつかせる。

 そのざわつきは「思い出してはならぬ」と「さもなくば黒い沼にお前は沈む」という警告のようであった。


「気をつけろ……我が妹……リゼルダに……」


 ラドラの声は途切れがちに掠れ、ひび割れた鎧の奥から、兄としての悔恨が滲み出ていた。


「……俺も……男として……見てしまっていたからな……リゼルダを……」


 ザグロの指が、剣の柄を強く握りしめる。


(リゼルダ)


 甘く、狂おしいほどの支配の視線、リゼルダの紅玉の瞳が脳裏に浮かぶ。

 その姿は恐怖か、それとも――。


「リゼルダは『魔王の業を背負った女』だ……欲に満ち、渇きに喘ぎ……ただの魔姫ではない……己を見失えば呑まれるぞ……」


 がしゃり、と胸甲が砕け落ちる。


「抗え、抗うのだ。お前は俺達を二度も斃し……勇者と呼ばれた誉れ高き男……自分の意志を持て……お前は人形ではない」


 ラドラは最後の言葉を残すと、鎧の破片から複数の光がふわりとこぼれ出た。

 それは魔王の第三十九王子と魔物達の魂か――微かな残響のような輝きだった。

 絡み合った光の糸はそっとほどけ、夜の闇に吸い込まれるように消えていく。

 ――洞窟に残されたのは、深い静寂だけだった。


(ラドラ……いや、俺はあいつらと命を削り合ったことがある)


 ザグロは荒い息をつき、暫くその場に立ち尽くした。

 勝利は得た。

 だが、胸の奥には妙なざわめき、不快な残像が焼き付いていた。


(……己を見失えば呑まれる……か……)


 ザグロはゆっくりと目を閉じた。

 心臓の奥、かすかな痛みが波のように響いてくる。

 それはただの肉体の疲労ではなかった。

 頭の奥に渦巻く記憶の断片――勇者だった頃の声、戦場の景色、仲間の笑顔、絶望の叫び。

 けれど、その全ては黒い霧に覆われ、触れようとすれば指の間から砂のようにこぼれ落ちていく。


(俺は誰だ……レオフレッドか、ザグロか……それとも……?)


 剣の柄を強く握り、ザグロはひとつ深く息を吸った。

 前を見据える。

 緑の炎が揺れる洞窟の出口、その先には冷たい夜と待つ者がいる。


 ――紅玉の瞳を持つ女、魔姫リゼルダ。


 甘い微笑み、狂おしいほどの所有欲、身を焼くような支配の手。

 彼女は自分を「夫」と呼ぶ。

 その呼び名が胸を熱くも、冷たくもする。

 その矛盾が、現在いまのザグロの輪郭をかろうじて作っていた。


(ラドラといったか……お前は最後に言ったな。俺に『抗え』と……)


 ザグロはゆっくりと歩を進めた。

 鎧の破片を踏み、緑炎の明滅の中を一歩、また一歩と出口へ向かう。

 外から流れ込む冷たい風が、汗に濡れた頬を撫でた。

 胸の奥底が高鳴る。

 それは戦いの興奮ではなく――これから対峙するものへの、未知の騒めきだろう。


(己を見失えば呑まれる……だが『抗う』ということは『見失わないこと』と同義だろうか……?)


 ザグロはわからなかった。

 だが、歩みを止めることはない。

 今は進むしかないのだ。


 そして――。

 洞窟を抜けた先、赤土の荒野に立つ黒き影。

 漆黒のドレスが夜風に踊り、紅玉の瞳がゆっくりとザグロを見つめる。

 その唇が静かに動く。


「おかえりなさい、ザグロ」

「ああ……リゼルダ」


 その名を口にした瞬間、ザグロの胸奥に熱と冷たさが入り混じるような感覚が走った。

 彼自身、その響きに戸惑い、僅かだが胸を締めつけられる呪縛の音に聞こえた。


 一方で、リゼルダの胸も静かに震えていた。

 どれほどこの瞬間を夢に見ただろうか、どれほど心が干上がるほど渇望し、孤独の淵で待ち続けただろうか。

 紅玉の瞳の奥で微かに揺れたのは、喜びだけではなかった。

 ほんの小さな影。

 彼がいつか、この声の奥に潜む真実を見抜き、手を離れてしまうのではないかと。

 彼女自身さえ意識しない、必死の恐れと願い。

 それを覆い隠すように、リゼルダはそっと唇を震わせて微笑んだ。


「私の名前を……初めて呼んで下さったのね」


 更にリゼルダは甘く、狂おしく、底の見えない声を演じる。


「嬉しいわ、あなた」


 それはまるで虚構の台詞、けれどあまりにも現実を縛る力を持った言葉。

 それは一流の女優のように、それは一流の政治家のように、それは一流の宗教家のように。

 だが、その芯には幼子のような必死の祈りが隠されていた。

 言葉という呪文が、ザグロの胸奥で黒い鎖を軋ませ、逃れられぬ絆のように響いた。


(俺はどうして、彼女にこんなにも惹かれるのだ……?)


 微笑むリゼルダを前に墜ちそうになる。

 すると、ザグロは胸の奥底で冷たい気配を感じた。

 ――忘れるな、抗え。呑まれれば、お前は消える。

 それはラドラが残した、最後のささやきだった。

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