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ep13.渇望力

 トルムカーンの宮殿<バルサグ・タシュ>。

 赤土の断崖を削り出して築かれたこの要塞宮は、外からはただの岩山にしか見えない。

 しかし、内部には土の精霊信仰の名残を留めた円形の礼拝堂や螺旋状の回廊、鉱石の装飾に満ちた間が広がる。

 ザグロは今、あの試練の戦いを越えたその身を宮殿の一室に横たえていた。


「切り傷一つ負ってないぞよ、バンブリーさんや」

「むほほほっ! 流石はリゼルダ様がお見初めになられた殿方ですな、メイベルさんや」


 治療を担うのは、奇妙な双子の老姉妹であった。

 魔族の尖耳を持たぬその姿は明らかに人間――しかも齢を重ねた老婆。

 本来、トルムカーンの宮殿に人間の姿は存在しえない。

 そこは第十一王子ルベルドが支配する領、妖魔と魔獣だけが棲む地だからだ。


「しかし、酷くお疲れじゃ」

「うむうむ。肉体というより、魂の方が擦り減っておられるようじゃな」

「バンブリ―さんや、これは……なにゆえかのう?」

「メイベルさんや、それを詮索するのは下々の礼にあらずというもの」


 双子は白い頭巾を被り、白の法衣を着こなしていた。

 古の典礼を思わせる静かな気配を漂わせる、白魔導士の双子。

 だがその胸元には、意味深いブローチが留められていた。

 白地に黒き手の紋章――そして褪せた金の縁取り。

 それは太古、重き過ちにより追放された家系の証、その印を帯びる者が何故ここにいるのか。


「それでは、治療を開始いたしますかな」

「とはいえ、なすべきは疲労の緩和にございますがのう」


 双子の老姉妹は白く乾いた指先に鈴の音のような力を宿し、ザグロの額にそっと掌を当てた。

 すると空気が一瞬震え、見えぬ線香の香が漂い出す。

 傷なきはずの肉体から、まるで古い呪文が抜けていくように疲労が蒸発し、ザグロの呼吸は穏やかに変わった。


「バンブリーさんや、やはりこの方は運命の縁を背負っておられるようじゃ」

「メイベルさんや、背中に星の影を抱く者など久しゅうございますな」

「けれど、これ以上は詮索いたしますまい」

「左様、左様。我らはルベルド様の命を受けて、癒しを施すのみ」


 二人は交互に言葉を紡ぎながら、まるで古の典礼を舞うようにゆっくりと歩みを進めた。

 ザグロの意識は、やがて眠りと覚醒の狭間へと沈んでいった。

 その深淵に現れたのは、かつての勇者の旅の残光――。

 亜麻色の髪を持つ女魔導士。屈強なる戦士。風のように舞う武闘家。

 それらは彼の記憶なのか、それとも過去から訪れた幻なのか。

 静かなる部屋の中、ただその映像ビジョンだけが音もなく燃えていた。


***


「今、ザグロ君は<白蓮の双つ影>による治療を受けているよ」


 柔らかな声で告げたのは、第十一王子ルベルドである。

 大地の王から奪いし、赤土の玉座に鎮座してリゼルダを凝視していた。

 試練を乗り越えたザグロ達は、暫しの休息と称してトルムカーンに滞在している。


「兄上、人間の魔導士など――何を考えているのです?」

「おやおや、君が言うとは意外だな。レオフレッドという人間を君自身が夫に選んだのに」

「彼はもう人ではありません。ザグロ――魔族です」

「ああ、確かに。人間の魂を包んだまま、魔族の仮面を被る存在だったね。呼び名一つで変わるのなら世界は便利だ」


 ヒルデラント伯領とトルムカーンとの間は地図上こそ隣接しているが、実際には赤岩の峡谷を越えねばならぬ。

 魔族の獣車であっても、一昼夜では到底辿り着けぬ距離であった。

 ――加えて、到着から間を置かずに課された試練。

 それはザグロの肉体のみならず、精神をも深く摩耗させるのは言うまでもない。

 そこでルベルドの提案により、トルムカーンで暫しの休息を得ることとなった。


「仮面をつけているのは兄上でしょう」


 リゼルダは、ルベルドの顔の左半分を覆う白い仮面を指差す。

 その瞬間、ルベルドの微笑はふと止まり玉座の間に冷気が走る。


「……リゼルダ」


 ルベルドは感情を押し殺した声を放ち、その白い仮面を外した。

 そこには、深く抉られたような傷痕が刻まれていた。

 剣というより、まるで岩を噛み砕く顎のような力でえぐられたような不自然な歪み。

 皮膚の下から覗く土色の脈動は、もはや人のものではない。


「見えるだろう、妹よ……人間である大地の王にやられた傷だ」


 低く響いたその声には僅かな震えがあった。

 それは怒りか、屈辱か、それともまだ癒えぬ痛みか――。


「これは屈辱と敗北の記憶……そして、人間を侮った報いとして刻まれた『忌まわしき烙印』だ」


 ルベルドは再び仮面を手に取ると、傷を覆うことなく膝の上に静かに置く。

 そして、その口調は荒々しいものへと変貌する。


「勝つには勝ったが、人間の底力は俺が嫌というほど思い知らされた――そこでリゼ、改まって言いたいことがある」

「改まって……?」

「ああ、土の心臓で話しただろ。ベン兄達はただの邪魔者だとさ」


 ルベルドは仮面を膝に置いたまま、指先でその縁をなぞった。


「俺はお前の夫を『魔王』として、この世界に記し残してやりたいと思っている」


 その提案は同盟の言葉というよりも、試すような宣告に近かった。


「兄上、忠告しておきましょう。今の御言葉――高位の王子や魔姫方には、謀反の意思と受け取られても仕方ありませんよ」


 リゼルダは一歩、玉座の階段に近づく。

 声に揺れはないが、視線には確かな警戒が宿っていた。


「殊に、兄上はハイゼル兄様の眷属と目されているのですから」


 その言葉には、兄の腹を探る静かな刃が込められていた。

 魔王後継者の最有力候補は、第一王子ベンハ、第二王子ハイゼル、第三魔姫アシュリナと目されている。

 それ以外の下位の王子や魔姫は、それぞれいずれかの眷属へと組み込まれる。

 突兵として戦場に立ち、侵略した領地を統治し、内政を支え、あるいは他勢力との交渉を担うなどの役目を与えられていた。


 名目上は『忠誠』を掲げながらも、実際には力ある上位者に従わなければ自らの生存すら保証されぬ。

 ――それが魔族世界の現行の秩序。

 誰かの『影』とならなければ、王座を目指すことすら許されぬ世界。

 それが魔族王統の実情であった。


「眷属か……」


 玉座の間には、しばしの沈黙が流れた。

 仮面を膝に置いたまま、ルベルドはふと視線を逸らすように天井を見上げる。


「……だが、考えてみればおかしな話だな」


 その声には、少しだけ笑いが混じっていた。


「父の血を引きながら、我らは誰よりも父を信じていない。忠誠も、家族の情も……ただの道具に過ぎぬと思っている」


 ルベルドは再びリゼルダへと視線を戻す。

 その目に宿るのは敵意ではない。ただ、鏡を見るような諦念の色だった。


「昔から思っていた。俺とリゼは似ているとな」

「……私が兄上に、ですか?」

「ああ、渇望力が同じだ。誰よりも得られぬものを欲し、それゆえに誰よりも知恵を巡らせる」


 静かな言葉だった。

 だが、その奥には確かな共犯の香りがあった。

 リゼルダは一瞬、目を細めた。

 それは警戒か、嘲笑か、あるいは理解か。

 そして――第四十四の魔姫は口元を歪めた。


「私を巻き込んだ責任――きっと重くなりますよ、兄上?」


 意味深に微笑みながら、リゼルダは玉座の前で静かに一礼した。

 その所作には花のような優雅さと、刃のような毒が同居していた。

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