――その朝、トルムカーンの空は妙に赤かった。
風は止み、岩の裂け目に籠もった熱がじわりと皮膚を焼く。
宮殿<バルサグ・タシュ>の螺旋回廊を昇るザグロ。
彼はベンハと邂逅したときと同じ、漆黒と赤紫を基調とした礼装姿に身を包んでいた。
濃紅の裏地が揺れる重厚なローブ。
胸元の火蜥蜴の銀ブローチ。
左肩には黒銀の肩当て。
袖には金糸の紋様が浮かび、指を露わにした黒手袋が手を覆っている。
「おはようございますじゃ、ザグロ様」
「昨日はよくお休みになられましたかえ」
双つの低く丁寧な声が背後から響いた。
振り返れば、白地の法衣を纏った老女――白蓮の双つ影、メイベルとバンブリ―である。
「ああ……」
簡素な言葉を述べるザグロに、双子の老女はケタケタと笑った。
「しかし、バンブリ―さんや。これから重要な任務があるというのに『無礼な礼服』でありまするな」
「そうじゃの、そうじゃの、メイベルさんや。これは何かの当てつけかの?」
バンブリーが目を細め、ザグロの胸元を指差した。
「その銀のブローチは、ヒルデラント伯領の紋章ではありませぬかの?」
メイベルも片眉を上げ、口元にわずかな笑みを浮かべる。
「ほほう、あの人間の地の意匠を胸に掲げるとは……リゼルダ様もまた、酔狂な趣向をお持ちじゃて」
ザグロは眉をわずかにひそめた。
しかし、指摘された『銀の
ただ与えられた礼服の一部に過ぎない。
リゼルダが用意したこの装束。
彼女自身の選択で黙して着せられた衣、どのような意図が潜んでいたのかを知らないでいる。
メイベルはザグロの反応を見て、小さく首を傾げた。
「ふむ……これは、何も知らされておられぬご様子じゃ」
バンブリーは眉根を寄せ、目を細めた。
「それでいて、あの装いをお許しになるとは……ベンハ様も度量が広いの」
メイベルが続ける。
口調は柔らかいが、その奥に棘があった。
「流石は魔王の長兄にして、万の軍を束ねるお方――見逃すことと、見過ごすことの違いを知っておられる」
ザグロはその言葉の意味を測りかねて、ただ黙していた。
「それではごきげんよう、ザグロ様」
「上でお二人がお待ちかねですぞ」
老女達はケタケタと笑い、そのまま静かに螺旋回廊を降りていった。
「人間が使っていた紋章……それをリゼルダは……」
ザグロは
リゼルダはこのブローチを与え、長兄であるベンハに――いや、魔族全体に何かを語ろうとしているのかもしれない。
だが、ザグロにはその意図が見えない。
ただ一つ、胸の奥にざらりとした違和感だけが残る。
(これは……俺のための装いではない。誰かの、何かへの……)
その思考は、言葉になる前に闇へと溶けていった。
老女達が去ったあと、ザグロは螺旋回廊の最上層へと足を運ぶ。
ゴブリンの従者モスより、ルベルドとリゼルダが呼んでいるとのことだった。
傷も疲労も癒えたザグロは、そのまま玉座の間へと赴く。
ただ言われるがまま行動する、それはまさに人形のように――。
「……ここがそうか」
彼の前に現れたのは巨大な石扉であった。
黒曜石と紅鉄鉱で築かれた二枚の扉。
渦巻くような地脈の意匠と、かつてトルムカーンを支配した大地の王が掲げた王印が彫り込まれていた。
石扉は、ザグロが近づくと同時に音もなく開いた。
開いた先、そこは玉座の間であった。
高い天蓋の下、古き大地の王が座していたという玉座が一つだけぽつりと据えられている。
そこに今座しているのは無論、人間の王ではない。
その椅子に腰を下ろすのは仮面の片目を光らせる男、第十一王子ルベルドであった。
その傍ら、玉座の横に立つのは艶やかな黒のドレスに身を包むリゼルダ。
ザグロの足音が響くと、玉座に座るルベルドが仮面越しにゆるりと目を細める。
「ザグロ、しっかりと休めたかい?」
ルベルドの声音はいつも通り穏やかで、しかしその下に何かが沈んでいる。
玉座の右に立つリゼルダは何も言わず、ただじっとザグロを見つめていた。
その紅玉の瞳は、まるで飢えた獣のような熱を孕みながらも口元には微かな笑みを浮かべている。
それは安堵のようにも、所有の証のようにも見えた。
ザグロが軽く頭を垂れたその瞬間、ルベルドは片手を掲げた。
「ふふっ……だんまりか。まあそれでこそ黒き子、肉人形とも言える」
ルベルドの言葉に、ザグロは眉ひとつ動かさない。
だが、すぐ隣に立つリゼルダの瞳だけは紅く光りを増していた。
その眼差しは兄の言葉の一つ一つを噛み殺すような、刺すような力を帯びている。
「その肉人形と呼んだ男は私の夫です」
その声は冷たくも澄み、玉座の間の空気を瞬時に凍らせた。
ルベルドは仮面越しに目を細め、手のひらを軽くひらひらと振った。
「失礼した。悪気があったわけじゃないんだ、許してくれ」
その言葉に返すことなく、リゼルダはザグロの腕にそっと触れる。
まるでその存在の重みを自ら確かめるかのように、静かな仕草で。
「――話があるのでしょう、兄上」
リゼルダの声に、ルベルドはようやく小さく頷いた。
「ああ……昨日、宛てが届いたんだよ。意外にも丁重なものがね」
ルベルドが指を鳴らすと、玉座の脇から妖魔の従者が一通の巻簡を捧げ持ってきた。
厚手の獣皮に封じられたそれは、明らかに<獣王家>のもの。
「差出人は獣王の御子、アシュリナ姉さんの夫だ」
リゼルダの瞳が細められ、ザグロの背筋はわずかに強張った。
その名には、確かに聞き覚えがあるが、指の隙間からすり抜ける砂のように記憶は曖昧。
――獣王。
人間の勇者だった頃、戦地の噂話で何度かその名が記されていた気がする。
しかし、魔族の身となったザグロには思い出すことができなかった。
ただ、獣王の名に触れた瞬間に胸の奥で何か黒いものがざわついた。
恐怖か、それとも本能が覚えている畏れかは今のザグロは
「祝意を述べたいとのことだ」
「祝意?」
リゼルダの問いにルベルドは頷いた。
「君達二人の婚姻に際して正式な祝詞を届け、可能であれば謁見の機会を望むとのことだ」
ルベルドは巻簡を仮面越しに見つめ、ふっと微笑んだ。
「獣王の心中に燃えるものは、果たして祝意だけだろうかねリゼルダ? 旧き想い、過ぎた欲、選ばれなかった者の苦みかもしれないね」
リゼルダは怪訝な顔をして沈黙する。
彼女は知っていた。
獣王が、今なお己を『獣の姫』と呼び、忘れがたき者としていたことを。
「招こう。バルサグ・タシュにて『祝宴』を開きたい。僕も君達を祝したいところだったしね」
その言葉にリゼルダは一瞬だけ目を伏せた。
だが、すぐに顔を上げるとその紅い瞳には静かな光が宿っていた。
祝宴の名を借りた策謀など、ルベルドが好む手口であることをよく知っていた。
「本当の祝宴になるのでしょうか?」
リゼルダの声は淡々としていたが、その奥に鋭い氷の刃が隠されていた。
兄の腹の底など、とうに見抜いているという目だった。
「魔族の宴に血が混ざるのは日常茶飯事さ。驚くようなことじゃないだろう?」