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ep15.獣王の来訪

 トルムカーンの赤き地に一人の男が降り立った。

 紫黒の長髪を背に流し、顎には猛獣のたてがみを思わせる濃く逞しい髭を蓄えている。

 厚い胸板と刻まれた筋肉は、一国の王というより巨獣のごとき迫力を放つ。

 肌には戦いの傷跡が浮かび、皇帝の証としてまとうマントは白布の内に獣の紋章が織り込まれている。

 その拳は大地を割り、咆哮は軍勢を退ける。


 ――彼こそが<獣王オブゴルスト>である。


 父はバルコザウラ。

 先代の獣王にして魔王ドラスターンとかつて魔族の覇権を争った男。

 バルコザウラは戦いに破れ、獣の冠を次代に託して死の闇に消えた。

 その遺志を継ぎ、オブゴルストは獣王の名を継承するに至る。

 そして、妻は第三魔姫アシュリナ。

 政略の果てに結ばれたその契りに愛の影は薄く、忠誠の色すら淡い。

 それでも魔王の血脈を繋ぐため、彼女はその役目を果たした。

 オブゴルストにとって、それは「得たもの」ではなく「与えられたもの」に過ぎない。

 隙あらば、魔王の座をも奪い取るつもりでいた。

 父がドラスターンに敗れたあの日から、オブゴルストの中で咆哮は収まっていない。


「オ、オブゴルスト様!」

「よ、ようこそいらっしゃいました!」


 声を上げたのは、バルサグ・タシュの外郭門を守る<フォルロッグ族>の衛兵達だった。

 獣人の一種であるフォルロッグ族は、豚に似た頭部と石をも砕く筋骨隆々の体躯を持つ。

 粗野で好戦的な種族だが、強者に対しては驚くほど忠実な性質を有している。


 その日、門に立っていたのは二体の兵。

 片方は鼻輪に錆びた鎖をつけ、もう片方は肩当てすら装着せず、皮膚に直接刻まれた部族紋様を誇らしげに晒していた。

 だが、オブゴルストが一歩近づいただけで彼らの膝が勝手に折れた。


 「ッぐ……お、オレの脚が勝手に……!」

 「ま、待ってくれ、兄貴! 目、合わせんな……ッ!」


 言葉を震わせながら槍を取り落とし、二体のフォルロッグは地に伏す。

 その場に吹き荒れるのは、まさに獣王の気圧である。


「フン、鼻輪の豚か。第十一王子ともなれば、せいぜいこの程度の臭い兵を寄越すらしい」


 獣王オブゴルストは吐き捨てるように言い、門を踏み越える。

 地に触れたその足の一歩が、石畳を軋ませ、地脈すら震わせるほどだった。

 フォルロッグの兵らは怯えきっていたが、オブゴルストは一瞥もくれず、ただまっすぐにバルサグ・タシュの中心へと進む。


「……さて『祝い』に参ったぞ、我が妻の妹とその婿殿に」


 獣王の背に従うは、獣人の精鋭達。

 黒豹、狼、鰐の血を引く者達が一様に重装し、その脚音だけでも周囲の魔族を震え上がらせた。


 だが、その中に魔姫の姿はなかった。


 獣王オブゴルストの妻アシュリナは、今回の訪問には同行していない。

 理由は明白である。

 アシュリナは、この地に足を踏み入れることを拒んだのだ。

 それは黒き子ザグロとリゼルダの存在が、アシュリナにとって『断ち切れぬ記憶』を掘り起こすものだったからだ。


 ――あの男は、私の弟を殺した。


 レオフレッド、かつての勇者。

 その剣が第三十九王子ラドラの命を奪った。

 その仇たる男がザグロと名を変え、リゼルダの夫として蘇っている。

 それを嬉々と祝うことなど、彼女の中では考えられなかったのである。


「リゼルダよ……獣王たる俺を選ばぬとは……」


 一人呟きながら宮殿を進むオブゴルスト。

 アシュリナがその呟きを聞いていたなら、きっとこう返しただろう。


「リゼルダが欲したのは王ではなく理解者。あなたは最初から対象外よ」


 彼女が獣王との契りを結んだのは、ドラスターンの命によるものだった。

 あれは愛ではなく、命令だった。

 己が第三魔姫であることを証明する、ただの役目を全うするため。

 そう、アシュリナが愛したのは――弟ラドラだけだった。


***


 その頃、ザグロはバルサグ・タシュの一室にいた。

 宮殿の回廊に吹き込む熱風が赤い石床を鳴らしている。

 まるで獣の息が耳元で這うように、得体の知れぬ気配が背後から迫ってくる。


(……何だ、この圧)


 歩みを止めたその背後で、どこかの扉が軋んで閉じる音がした。

 その瞬間、胸の奥で何かがざわりと軋む。

 恐怖ではない。

 だが、肌が覚えている。

 この気配はかつて嗅いだことがある――獣の咆哮、死の予兆。


(俺は……知っているのか? この気配を)


 思考が深みに沈むその時、従者ゴブリンのモスが一礼して告げる。


「ザグロ様、まもなく祝宴が始まります。獣王オブゴルスト様が御到着されました」


 ザグロは無言のまま頷いた。

  モスの足音が去ると、扉の向こうからかすかに香が漂った。

 薔薇と焔を思わせる芳香。ザグロが顔を上げた瞬間、静かに扉が開く。


「ザグロ……準備は出来ましたか?」


 そこに立っていたのは、黒と赤のドレスを纏ったリゼルダだった。

 竜胆りんどう色の薔薇を髪に挿し、焔を封じたような瞳がザグロを見つめている。


「さあ行きましょう、誇りを持って。あなたは私の名に値する男――魔姫の騎士ザグロなのだから」


 リゼルダはわずかに微笑み、手を差し出した。

 ザグロがその手を取ると、二人の歩みが始まった。

 これから欲望の祝宴が始まる。

 ただし、心に牙を忍ばせた者達だけの舞台で――。

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