トルムカーンの赤き地に一人の男が降り立った。
紫黒の長髪を背に流し、顎には猛獣の
厚い胸板と刻まれた筋肉は、一国の王というより巨獣のごとき迫力を放つ。
肌には戦いの傷跡が浮かび、皇帝の証として
その拳は大地を割り、咆哮は軍勢を退ける。
――彼こそが<獣王オブゴルスト>である。
父はバルコザウラ。
先代の獣王にして魔王ドラスターンとかつて魔族の覇権を争った男。
バルコザウラは戦いに破れ、獣の冠を次代に託して死の闇に消えた。
その遺志を継ぎ、オブゴルストは獣王の名を継承するに至る。
そして、妻は第三魔姫アシュリナ。
政略の果てに結ばれたその契りに愛の影は薄く、忠誠の色すら淡い。
それでも魔王の血脈を繋ぐため、彼女はその役目を果たした。
オブゴルストにとって、それは「得たもの」ではなく「与えられたもの」に過ぎない。
隙あらば、魔王の座をも奪い取るつもりでいた。
父がドラスターンに敗れたあの日から、オブゴルストの中で咆哮は収まっていない。
「オ、オブゴルスト様!」
「よ、ようこそいらっしゃいました!」
声を上げたのは、バルサグ・タシュの外郭門を守る<フォルロッグ族>の衛兵達だった。
獣人の一種であるフォルロッグ族は、豚に似た頭部と石をも砕く筋骨隆々の体躯を持つ。
粗野で好戦的な種族だが、強者に対しては驚くほど忠実な性質を有している。
その日、門に立っていたのは二体の兵。
片方は鼻輪に錆びた鎖をつけ、もう片方は肩当てすら装着せず、皮膚に直接刻まれた部族紋様を誇らしげに晒していた。
だが、オブゴルストが一歩近づいただけで彼らの膝が勝手に折れた。
「ッぐ……お、オレの脚が勝手に……!」
「ま、待ってくれ、兄貴! 目、合わせんな……ッ!」
言葉を震わせながら槍を取り落とし、二体のフォルロッグは地に伏す。
その場に吹き荒れるのは、まさに獣王の気圧である。
「フン、鼻輪の豚か。第十一王子ともなれば、せいぜいこの程度の臭い兵を寄越すらしい」
獣王オブゴルストは吐き捨てるように言い、門を踏み越える。
地に触れたその足の一歩が、石畳を軋ませ、地脈すら震わせるほどだった。
フォルロッグの兵らは怯えきっていたが、オブゴルストは一瞥もくれず、ただまっすぐにバルサグ・タシュの中心へと進む。
「……さて『祝い』に参ったぞ、我が妻の妹とその婿殿に」
獣王の背に従うは、獣人の精鋭達。
黒豹、狼、鰐の血を引く者達が一様に重装し、その脚音だけでも周囲の魔族を震え上がらせた。
だが、その中に魔姫の姿はなかった。
獣王オブゴルストの妻アシュリナは、今回の訪問には同行していない。
理由は明白である。
アシュリナは、この地に足を踏み入れることを拒んだのだ。
それは黒き子ザグロとリゼルダの存在が、アシュリナにとって『断ち切れぬ記憶』を掘り起こすものだったからだ。
――あの男は、私の弟を殺した。
レオフレッド、かつての勇者。
その剣が第三十九王子ラドラの命を奪った。
その仇たる男がザグロと名を変え、リゼルダの夫として蘇っている。
それを嬉々と祝うことなど、彼女の中では考えられなかったのである。
「リゼルダよ……獣王たる俺を選ばぬとは……」
一人呟きながら宮殿を進むオブゴルスト。
アシュリナがその呟きを聞いていたなら、きっとこう返しただろう。
「リゼルダが欲したのは王ではなく理解者。あなたは最初から対象外よ」
彼女が獣王との契りを結んだのは、ドラスターンの命によるものだった。
あれは愛ではなく、命令だった。
己が第三魔姫であることを証明する、ただの役目を全うするため。
そう、アシュリナが愛したのは――弟ラドラだけだった。
***
その頃、ザグロはバルサグ・タシュの一室にいた。
宮殿の回廊に吹き込む熱風が赤い石床を鳴らしている。
まるで獣の息が耳元で這うように、得体の知れぬ気配が背後から迫ってくる。
(……何だ、この圧)
歩みを止めたその背後で、どこかの扉が軋んで閉じる音がした。
その瞬間、胸の奥で何かがざわりと軋む。
恐怖ではない。
だが、肌が覚えている。
この気配はかつて嗅いだことがある――獣の咆哮、死の予兆。
(俺は……知っているのか? この気配を)
思考が深みに沈むその時、従者ゴブリンのモスが一礼して告げる。
「ザグロ様、まもなく祝宴が始まります。獣王オブゴルスト様が御到着されました」
ザグロは無言のまま頷いた。
モスの足音が去ると、扉の向こうからかすかに香が漂った。
薔薇と焔を思わせる芳香。ザグロが顔を上げた瞬間、静かに扉が開く。
「ザグロ……準備は出来ましたか?」
そこに立っていたのは、黒と赤のドレスを纏ったリゼルダだった。
「さあ行きましょう、誇りを持って。あなたは私の名に値する男――魔姫の騎士ザグロなのだから」
リゼルダはわずかに微笑み、手を差し出した。
ザグロがその手を取ると、二人の歩みが始まった。
これから欲望の祝宴が始まる。
ただし、心に牙を忍ばせた者達だけの舞台で――。