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ep16. 血宴の始まり

 トルムカーンの空は燃えさかるような朱に染まり、バルサグ・タシュの赤岩が仄かな熱を孕んでいる。

 その熱は、今日という一日に潜むものを暗示しているかのようだった。

 祝宴――表向きには第四十四魔姫リゼルダと、黒き子ザグロの婚儀を讃える式典。

 だが、その実態は仮面に彩られた野心と嫉妬、忠誠と裏切りが交差する仮面舞踏劇である。


 大地の王の玉座を改装した主宴の間には、すでに魔族達が集っていた。

 茨冠を頂く魔貴族、蛇の舌を持つ巫女、魔獣を従える将軍。

 それぞれが飾り立てた異形の仮面をつけ、皮肉と虚栄の笑みを湛えながら踊りの輪を形成している。

 全て獣王オブゴルストと親交を持つ魔族の者達である。


 楽団の奏でる調べ。

 かつて人間の国で演じられた葬送の旋律を歪めたものであり、優雅さよりも毒々しさが際立っていた。

 蝋燭は紫色の異形の炎で揺れ、香の香りは花ではなく獣の血を思わせる。


「ルベルド、礼を言おう。急な申し出にもかかわらず、宴の席を設けてくれて感謝したい」


 ――その声は、岩殻の天蓋を鈍く震わせるように低く、重々しく響いた。

 断崖を穿って築かれた宮殿バルサグ・タシュ。

 その主宴の間に続く門が、赤鉄鉱を軋ませながら音もなく開く。


 現れたのは、獣王オブゴルスト。

 紫黒色の鬣を背に、火獣の意匠が刻まれた土製の肩当てを揺らしながら、朱土に染まる床を爪先で軋ませて歩を進める。

 王獣のごとき堂々たる進軍のようであった。

 その姿は、かつて大地の王が歩いた石床を逆説的に踏みしめる者のようであった。


 背後に連なるのは、黒豹、狼、鰐などの獣の血を引く戦士達。

 土の精霊像を削り落とした古い壁面にその影を落とし、静かに、だが確実に気圧を満たしてゆく。

 まるで、宮殿そのものが彼らの歩みに呼応してきしんでいるかのようだった。

 だが、その声には奇妙な軽さがあった。


「この岩の匂いは嫌いではない。だが、どこか死者の骨を煮詰めたような臭気が混ざるな……ああ、人間の王の残り香か?」


 言葉は礼を述べていたが、音の奥底には「借りなどではない」という意思が潜んでいた。

 それは、あたかも「これは俺の縄張りだ」とでも言いたげな、王の咆哮を押し殺したような響きである。


「妹の人生の節目です。そこへ獣王が祝したいと申し出があれば用意するのが、兄というものでしょう」


 玉座に腰掛けるルベルドが杯を傾けながら笑った。

 仮面の下、その左目だけが妖しく光り、感情を読み取らせぬまま獣王を正面から見据えている。


「しかし、獣王殿」

「何だ?」

「貴公が祝福に来るなど、風が吹き変わる前触れかと騒ぎ立てる部下も多くてね。中には『獣王が牙を研ぎに来た』などと囁く声もありましたよ」


 その皮肉に、オブゴルストは歯を見せて笑った。

 それは人間なら笑みと捉えるかもしれないが、魔族達には『狩りの始まり』に見える顔であった。


「牙を研いでいるのは果たしてそうかな? 人形に鉄仮面を被せ企みを図っているという話も聞く」


 その一言で、宴の空気が一段冷える。

 ザグロはただ静かにリゼルダの傍に立っていた。

 その横顔には感情の色は薄い。

 だが、瞳の奥には――わずかな揺れがあった。


(人形……)


 その言葉は何度も聞かされた。

 否定する言葉も、肯定する記憶もない。

 だが、今この場に自らの足で立っていることだけは確かだった。

 そして、隣にはリゼルダがいる。

 彼女を選んだのは、他ならぬ自分――ザグロ自身なのだ。


「オブゴルスト殿、その『人形』は私の夫のことですか? 言葉にはお気をつけ下さいませ」


 リゼルダの声音は静かだった。

 だが、その瞳には灼熱の深淵が宿っていた。


「リゼルダよ、失礼ながら俺は知っている。その男の『芯』が何者かを――レオフレッドと呼ばれていた頃からな」


 その名が落ちた瞬間、空気が震えた。


(レオフレッド?)


 ザグロの胸が脈打ち、何かが軋む音が聞こえた。

 遠い記憶。

 名もない光と剣の残像。

 火花。

 叫び。

 約束。

 何かが、呼び起こされようとしていた。


(俺は何かを守ろうとしていた……何かを誓って……誰かと……)


 ザグロは口を閉ざしたままだった。

 それが耐えているのか、拒んでいるのか、誰にもわからなかった。


「私の夫は『レオフレッド』などという名前ではありません。彼は魔族『ザグロ』です」


 リゼルダはゆっくりと歩を進め、ザグロの横に並んだ。

 その紅玉の瞳が静かにザグロを見つめる。

 優しさでもなく、哀れみでもない。

 そこに宿っていたのは、まるで信仰にも似た強い光だった。


「あなたは私の選んだ者です」


 その言葉はザグロの胸奥にひっそりと染み渡った。

 彼女がそれを口にしたのは、初めてだった。

 誰の命令でもなく、名誉でもなく、ただ選んだと――。


「……獣王殿」


 リゼルダはそのまま、ひるむことなく視線をオブゴルストへと移した。

 唇に微笑を湛えながら、しかし言葉には冷たい刃を忍ばせる。


「祝いの場ですのに、随分と過去の亡霊を引き合いに出されますのね」

「過去の亡霊……だと……?」


 オブゴルストの眉がわずかに動いた。

 それは不快か、それとも思いがけぬ命中だったのか。

 だが、彼は何も言わない。

 あえて言葉を抑え、笑みのままにその場を保った。


「私は、戻るために歩いてなどいませんから」


 ザグロの肩にそっと手を添える。

 その指は、微かに震えていた。

 だが、その震えをザグロは拒まなかった。


(リゼルダ……)


 記憶の奥に誰がいたのかは、まだ思い出せない。

 だが、傍にいるリゼルダにだけは応えたいと強く思った。

 レオフレッドの記憶か。

 ザグロの願いか。

 それを区別する言葉をまだ持ってはいない。

 ただ、リゼルダのために立ちたいという想いだけが湧き上がった。

 それは過去か、呪いの影響か、それとも――。

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