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ep17. 黒き渇望と白き誓い

 外殻は変わらず豪奢だった。

 杯を鳴らす音、笑い声、香と舞の流れ。


「新たなる契りに万歳! しかし、さて、いつまで保つものやら」


 ――二枚舌の貴族。

 孔雀の羽を模した仮面に唇の端だけで笑う男。

 だが、本当に動いていたのは杯でも足でもなく視線だった。

 獣王。

 魔姫。

 そして、転生の影を持つ黒き子は互いに静かに見ている。


「あれが噂の黒き子……リゼルダ様は人形遊びがお好きなようで」


 ――銀の仮面を被った巫女風の女。

 蛇鱗の刺繍が首元から覗いている。


 祝宴は機械仕掛けのように進行していた。

 ただし、心は誰一人ついてこないまま。

 誰も心から祝ってなどいなかった。


「笑え、笑え……祝うふりを忘れるな。仮面の裏で何を狙おうが、今は『踊る』ときだ」


 ――舞の輪の隅に立つ道化の悪魔男。

 赤黒い仮面に扇子を広げて笑う姿が目を引く。

 言葉の端に潜む探り、視線の裏に宿る計略、足元に這う何かの気配。

 この夜がただの祝宴で終わることを、誰一人信じてはいなかった。


「これから始まるのは祝福じゃないよ。これは私達の黒き子の鑑賞会なの」


 ――濁った碧眼を持つ、幼き少女の姿を借りた妖魔。

 喉の奥で鈴の音のような笑いが揺れる。


「これこれ、お喋りはいけませんぞ、ドフフフ!」


 ――複眼の仮面をかぶった小太りの獣人。

 首を揺らすたびに仮面の複眼がきらめいた。

 オブゴルストと親交を持つ彼らだが、その実は黒き子ザグロを値踏みしながら、どの陣営に与するかの算盤を弾いている。


 ベンハか。

 ハイゼルか。

 アシュリナか。


 それとも――。

 まだ誰も気づいていない黒幕の手へと転がるか。


『誰の椅子に座れば、一番長く踊っていられるか?』


 彼らは踊りながらも、祝宴の天秤がどちらへ傾くかを見極めようとしていた。

 そんな喧騒と計略が渦巻く中。

 ただ一人、白き仮面の奥の視線だけが時を止めたように動かなかった。

 その主はルベルド。

 魔王ドラスターンの第十一王子――影を食み、策略を編む仮面の男。


(ふむ……ザグロの姿勢は悪くない)


 その視線の先は祝宴の中心。

 妹リゼルダと、その夫であるザグロの姿があった。

 漆黒の礼装に身を包む二人はこの場の主演であり、導火線でもあった。


(獣王や他の魔族達に気圧はされど折れてはいない)


 仮面の下で、ルベルドの口角がわずかに動いた。


(だが――油断の隙はある)


 その左手が、杯の脚を静かに撫でる。

 視線はザグロの指先、盃の縁からほんの僅かにはみ出すように揺れる“気のゆらぎ”を見逃してはいなかった。

 それは魔族の力ではない。

 もっと“内側”から生まれる何か――あれは、あの夜、土の心臓で放たれたものと同じ。


(また……あれが出ようとしているのか?)


 あれとは聖光。

 魔族にとっては最も遠く、最も忌まわしい光。

 信仰、誓約、そして――人として在ることの証明。


(消されたはずの光が、まだこの男の中に残っているというのか)


 ルベルドは杯を静かに揺らし、紫煙の向こうに立つ妹の姿へと視線を移した。

 リゼルダ。

 黒き愛の魔姫。

 彼女が抱く渇望は深く、狂おしく、だがある意味で純粋であった。


(その渇望がザグロを食い潰すか……それとも、ザグロがその呪いを打ち破るか……)


 どちらでも構わない、とルベルドは思っていた。

 大切なのは、その過程で何がこぼれるかだ。

 邪魔者は全て蹴散らし、自らは王の影となり権力に酔いしれるのが『渇望』である。

 それまでは記録官のように冷静な心と、策士のように好奇心を踊らせたかった。


「――ルベルド様」


 ひそやかな声が脇から届く。

 それは小柄な従者、名を持たぬ使い魔の影。

 青色の肌と黒き角を生やす低級の妖魔である。


「何用だ」


 ルベルドは首だけをわずかに傾ける。

 その様子を見ながら使い魔は頭を垂れ、小声で囁いた。


「辺境地帯にて、魔族の斥候が相次いで撃退されております。姿なき剣士によって――と」


 仮面の奥で、ルベルドの目がわずかに細められる。

 音のない笑みが、内側で微かに動いた。


「姿なき剣士とは……これはまた詩的な」

「先程、ハイゼル様の使者が立ち寄り、各地の警戒を強めるよう通達を残していきました」

「ほう……」

「その者、かのレオフレッドを思わせる光の剣を操り、一振りで魔族を仕留めるそうです」


 仮面の奥の視線が、ゆっくりと杯から離れた。

 ただ一言――光の剣という響きが、かつての名を呼び覚ます。


(聖光の誓いを抱く剣か――)


 胸の内に、微かな既視感が過った。

 焔のようであり、影のようでもある。

 それは、かつて滅びたはずの名が、別の形で蘇りつつあるという確信だった。


「あの男、成功したのか」


 言葉の尾を引くことなく、彼は静かに指先を一振りさせた。

 それは讃辞ではなかった。

 興味でもなかった。

 あえて言うなら、素材に対する観察者の静かな歓喜――。

 ザグロという器とは異なる、光の系譜が存在するという確信に過ぎなかった。


「……ご苦労、下がってよいぞ」

「はっ」


 使い魔が音もなく下がるのを見送りながら、ルベルドはただ一度紫煙の向こうを見やった。

 その目は祝宴を越え、さらに遠く――。

 まだ名も形も持たぬ影の在処を見据えていた。


(ふふ……これはこれで面白くなってきた)


 従者が影に戻ると同時、ルベルドはまた杯に戻る。

 仮面の下の視線が再びザグロの背を追った。

 その瞬間だった。


 ――ぱち、と。


 何かが燃えたような音が聞こえた。

 しかし、その音は耳に聞こえるような安易なものではない。

 ルベルドの第六感という曖昧な器官で感じ取ったものだ。


(あれは……)


 見ると、ザグロの右手――指先から仄かな光が漏れていた。

 その色は白い。

 あまりにも白い。

 それは炎でも、雷でもない。

 祈りのように静かで、魂のように真っ直ぐな光である。


(……やはり出たか)


 ザグロの表情は変わっていない。

 だが、彼の内なるものが――否、かつての“何か”が、再び目覚めようとしている。

 そして、その光に宴の片隅で誰よりも早く気づいたのは獣王オブゴルストだった。


「フフッ!」


 オブゴルストの唇がついと笑みを作る。

 だが、それは捕食者のものだ。

 光に気づいた獣は、鋼鉄を嚙み砕く牙を見せていた。


(リゼ、幕が上がったぞ……お前の『誓い』が、闇がその光を飲み込めるかどうか)


 ルベルドはその時、確かに愉悦の笑みを浮かべていた。

 この宴はただの祝福ではない。

 二つの誓い。

 黒き渇望と白き祈りが交わろうとしていた。

 そして、もう一つ。

 白にも黒にも染まらぬ、第三の刃が静かに鞘から抜かれようとしていた。

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