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Episode2 「愛らしい微笑みの影で」

 机上に積まれた報告書や申請書の山を睥睨へいげいし、少年は思わず舌打ちをもらした。

 綿毛のようだと定評のある、己の髪質の憎らしさにも似ている。窓から差し込む柔らかな陽光が、己の金髪をより鮮やかに照らし出した。

 徹夜明けの目にはそれがひどく眩しく、苛立ちが募った。

「はぁ~……まったく。どいつもこいつも! 親から餌をせびる雛鳥かよ! 私腹より大局を見ろって!」

 整った柳眉がつり上がり、白く艶やかな頬が僅かに膨れる。

 ヴェルナンド王国第二王子――ルクル・サーレ・ヴェルナンドは激しく頭をかき回した。

 現在、王都近郊では害獣の出没に大騒ぎだ。騎士団が調査のために人員を各地に派遣してくれているが、できることなら早急に学者たちを加えた調査団を組織しなければならない。

 しかし、ルクルの下にやってくるのは、税金の着服に、不法な取引、禁止された奴隷売買の実施、所有する土地や鉱山利益の報告漏れなど……現状の危機を無視した、欲にまみれた事務処理ばかりだった。

 ルクルはそれらの報告書を睨みながら、この時間を無駄に浪費する連中を罰するための書類にひたすらサインをしていく。

「ったく、やるならバレないようにやれっての! 今までも散々忠告してやったろうがっ……ばぁか!」

 悪態とともに、サインを終えた書類を山となった束のてっぺんに叩きつける。

 害獣被害が多発している現在、国王からの監視の目も緩い。これ幸いと貴族たちは自分たちの私腹を肥やすことにことさら熱心になっていた。

「もういっそ、全員ヴァネッサ送りにしてやるか? その際に、優秀な人材は引っこ抜いて、王都の守りを固めれば審査院の手を煩わせず、時間や国費の節約にもなる」

 くすくす笑いながら令書にサインをしていると、手元が僅かに陰った。

「殿下、さすがにそれは王族の発言としていかがなものかと……」

「グレイブ、いきなり出てきてぼくに説教か?」

 ルクルは紙面に走らせていたペン先を浮かせる。

 顔を上げれば、右目の辺りに切り傷がある己の腹心が立っていた。頭からすっぽりとフードを被り、擦り切れた衣服を纏う彼はこの王宮内ではかなり浮いている。

 いっそ暗殺者だと言われた方がしっくりくるほどだ。表情が変わらないので、普段から何を考えているかはわからない不愛想でつまらない男だが、それでも仕事の迅速さと正確さを買って傍に置いている。

 グレイブがそっとこちらに一枚の書類を差し出してくる。

「おい、書類の追加は受け付けないぞ」

 ルクルは書類の山を忌々しげに睨みながら吐き捨てる。

 まだまだ手つかずの書類が残っているのだ。これ以上仕事を増やされてはたまったものではない。

「承知いたしました」

 腹心の男はサッと書類を引っ込める。

「殿下ご自身が申請したものですので、お手すきのときにご確認ください」

 ルクルは書類へ戻しかけた視線を、弾かれたようにグレイブへ向ける。

「貸せ!」

 ルクルはグレイブから書類をひったくると、ざっと目を通す。

 書類の下部に印字された風獅子の目がこちらを見つめている。思わず息を呑んだ。

「ははっ! やっとだ! ご苦労!」

 もたらされた朗報に、ルクルの口端が上がる。

 両腕を高々と虚空へ掲げ、ルクルは無邪気に喜んでいる。グレイブも静かに頷いた。

「……何事も、つつがなく進んでいるようですね」

「ああ! まったくだ! 五年だよ? 五年も待ったんだ! やっと、やっとぼくの手に……」

 ルクルはほぅっと頬を赤らめ、うっとりと認可証を見つめる。

 恍惚ともとれる表情で微笑む己の主を、グレイブは一歩下がった場所で窺っていた。

「もう一つ、ご報告があります」

「ああ、何だい? 今のぼくは機嫌がいいから、どんな悪い報せにも寛容だ」

 鼻歌でも歌い出しそうな調子で、ルクルは執務机に頬杖をつく。

「先程、警備隊から連絡がありました。ファーナ川付近の街道にて、害獣が出没。荷馬車で王都を目指していた商人たちが襲われました」

 グレイブの報告に、上機嫌だったルクルの表情が険しくなる。

「随分と近いな……被害は?」

「ありません。運よく、通りかかった騎士団の分隊が商人の保護と害獣の討伐を成し遂げましたので」

 ルクルの瞳が見開かれる。グレイブはそっと頭を下げた。

「お察しの通り。テナー・ルクエス卿です」

「ああ……もう王都に帰ってきたんだね。最後に会ったのは彼女が学園を退学する前日だったから……九年ぶりかな?」

 ルクルの碧眼が細められる。あどけなさの残る幼い顔立ちの中で、その碧眼だけがいやに爛々と揺らめいた。

「グレイヴ、わかっているよね?」

 ルクルの顔に笑みが宿る。

 グレイヴはこぼれそうになったため息を、寸でのところで飲み込んだ。


 ――令嬢人形ベベドールのように愛らしい第二王子様は、まさに「天使」である。


 一体誰が言い始めたのか。

 欲に溢れた双眸でグレイヴを見据えるこの王子の本性を、どれだけの令嬢が見抜けずにいるか。

「殿下……どうか思いとどまりますよう」

 グレイヴはルクルの顔を見据えたまま、諭した。

 引き返すならば、「今」しかないからだ。

 けれど、グレイヴの思いはルクルの機嫌を損ねただけのようだった。

 ルクルの口元に浮かんでいた笑みがスッと消える。

「ぼくが求めているのは、『はい』だよ」

「相手は我が国にとって重要な人材です。かの女騎士の名誉を貶めるようなことは……」

「代わりなんていくらでもいるさ。暇な奴を辺境へ送り出せばいい。ああ……ルマーノ伯爵の次男坊なんてどうだい? この前のパーティーで面子潰してやったし、しばらく王都には居づらいだろうからね。やはり彼自身にも、再起を図る機会は与えてあげるべきだね」

 楽しげに微笑むルクルに、グレイヴは眉を寄せた。

「いいかい? ルクエス卿が王宮入りをしたら、彼女に接触しようとする者すべてを遠ざけるんだ」

 親指と人差し指でつまんだ令書をひらひらと弄びながら、ルクルはグレイヴを鋭く睨みつけた。

「彼女は『騎士』にふさわしくない。『王国最強の騎士』の座から彼女を引きずり下ろすためなら、ぼくはどんな手段も厭わない。君がすべきことは、ルクエス卿のどんな些細な言動も、余すことなくぼくに報告することだ」

 それ以上の反論を、ルクルは許さなかった。

 グレイヴは左胸に右手を添え、礼を取る。

 そのまま来た時と同様、足音もなく、部屋の陰に溶け込むように消えていった。

「ったく、言われた通りにだけ動けばいいものを。いちいち勘が鋭いのも考えものだなぁ……」

 グレイヴの消えた暗がりに向けて悪態をつくも、すぐにどうでもよくなる。

 なにせ今は気分がいい。部下の無礼にも、目をつぶってやろう。

 ルクルは執務机の引き出しから、騎士団名簿を取り出す。折り癖のついたページを開けば、似顔絵とともに女騎士の履歴が記されていた。

 舌の上で転がせばきっと甘いだろうはしばみ色の髪に、凛々しく細められた双眸は美しい声で鳴く金糸雀の愛らしさが滲む。真一文字に引き結ばれた唇は朝露に濡れる薔薇の蕾を思わせた。

「あぁ……テナー・ルクエス」

 ルクルの熱のこもった眼差しが、凛然とした表情の女騎士へ注がれる。

 かつて、社交界での注目を一身に浴び、令嬢たちから「麗しの騎士」と呼ばれた女騎士。

 自分に絶対の自信を持つ女性の表情を前に、ルクルは恍惚とした表情を浮かべた。

「君はもう二度と、騎士として戦場に戻ることはできない。そうしたら、君はどんな表情でぼくを見てくれるのだろう?」

 無意識に己の唇に人差し指を這わせ、そっと熱のこもった吐息をこぼす。

「天使の瞳」と称えられる碧眼が、執務室の窓へと向いた。窓の向こう側には王城を囲う城壁が聳え、さらにその向こう側では城下の町並みが蟻のようにひしめいている。

 王城の入り口に近い一角、広い敷地を有する建物は、王国騎士団の中央司令部である。三つの尖塔のある建物は住民たちからも「熊手フォーク」のあだ名で親しまれていた。

「だいぶ時間がかかってしまったけれど、もうこんな茶番はおしまいさ」

 手にした名簿を机上に放り出すと、椅子の背もたれに身を沈める。椅子が軋んだ音を立てた。細い足を組み、豪奢な照明飾りを見上げてほくそ笑む。

「あぁ、テナー・ルクエス。君に会えるのが今から待ち遠しくて仕方がない。君が帰ってくるまでに、君だけのために用意した特別な贈り物……喜んでくれるといいけれど」

 まるでこれから楽しい遊戯ゲームが始まるとでも言わんばかりに、ルクルは無邪気な笑顔で女騎士の似顔絵を指先でなぞった。


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