テナーがルクルの護衛騎士となって、早くも一週間が過ぎた。
今のところ、ルクルの生活圏に不審な人物の影は見えない。
ルクルも基本的には白百合宮からあまり出ることがなく、執務室で山積みの書類を捌いていることがほとんどだった。
外出も、こうして息抜きに庭園を散策するくらいである。
学生時代、多くの貴族令嬢・令息に囲まれている姿しか見たことがなかったテナーにとって、ルクルの私生活は意外なことばかりだった。
テナーはルクルの後ろに付き従いながら、白百合宮の一角にある庭園へとやってきた。
薄く刷毛で佩いたような白雲が風に乗って東へ流れていく。
この時期のウルタは安定した気候で、庭園では薔薇や百合、ラベンダーがそれぞれの花壇で色鮮やかに咲き誇っている。
「ルクエス卿、少しかがんで!」
ルクルが足を止め、体ごとテナーを振り返る。
何がそんなに嬉しいのか。
こちらに向けられる満面の笑みが、逆に怖い。
「え……? は、はい」
テナーは警戒しつつも、ルクルの傍で跪いた。
一体、今度は何をするつもりだ?
ごそごそと自分のズボンのポケットに手を突っ込んでいるルクルを、テナーは鋭い視線で注視する。
「えへへ、これ……ぼくからの贈り物だよ。ぼくの護衛騎士に就任してくれたお祝い」
そう言って差し出してきたのは、透かし模様の布だ。長さから、スカーフだろうか。
「じっとしていて。つけてあげる」
テナーが制止する前に、ルクルの手が伸びてテナーの襟元に触れた。支給品のスカーフがするすると解かれる。
「殿下、自分でやりますので……どうかおやめください」
テナーは気恥ずかしさから咄嗟に顔を伏せた。まさか就任して間もない自分に、わざわざ贈り物を用意してくれていたとは思わなかった。
「大丈夫。誰も見てないよ」
ルクルは鼻歌まじりに軽く言ってのける。テナーは頭を抱えたくなった。
これ、素なのか? それともわざと?
テナーはスカーフを結ぶルクルを見つめながら、一人百面相をしていた。
するすると透かし模様のスカーフが自分の襟元に巻かれる。よく見ると、花の図柄のようだ。それも、百合の花と思しきもの。
スカーフの図柄を認識した途端、テナーはすぐさま冷静になった。火照った頬から、急速に熱が引くのを自覚する。
なんだ……「
主を象徴するものをあしらった小物を護衛騎士が身に着ける。その意味するところは他の王侯貴族への牽制だ。
優秀な護衛騎士は、常に争奪戦だ。主から下賜されたそれらを身に着ける行為は、護衛騎士にとって自ら仕える主への絶対的な忠誠を示すものとなる。
それを名誉と受け取る護衛騎士が大半だが、テナーからすれば主が飼い犬に首輪をつけるのと何ら変わらない。
私は、何を期待したのだろう。
ルクルは他の王侯貴族同様、テナーを手元に置いておくために目印を与えただけに過ぎない。
「ありがとうございます、殿下。私にはもったいないほどの贈り物です」
ルクルの手がスカーフから離れたのを見て、テナーは愛想笑いを向けた。
すぐさま礼を述べたテナーに、ルクルはきょとんっとした顔つきになる。
「え、まだあるよ?」
「は?」
不覚にも、間抜けな声がテナーの口からこぼれた。テナーが呆然と見守る中、ルクルはもう一方のポケットから小箱を取り出した。
ちょうど、
案の定、ルクルが開けた小箱には、宝石の埋め込まれた胸飾りが一つ。その装飾や意匠を見るなり、テナーは目を見開いた。
「殿下、それは……」
「金糸雀を模した胸飾りだよ! ルクエス卿の瞳に似て、綺麗でしょ?」
ルクルの邪気のない笑顔を、この時ほど直視できなかったことはない。
ルクルが差し出してくる小箱の中にあった胸飾りは、愛らしい金糸雀が歌う様子を象ったものだ。
金糸雀にあたる宝石は、
一目見て、高価な品物だとわかった。
しかしそれ以上に――
か、可愛い……っ!
テナーの心が、震えた。
子どもっぽさのない、上品な愛らしさを醸し出す金糸雀に、真珠や金剛石が織り成す
騎士の職務中に身に着けるには、高価過ぎて少々気後れするが、令嬢としてならきっとドレスに華を添えてくれるだろう。
「ふふ、気に入ってくれたみたいだね」
言葉もなく、胸飾りを凝視して固まっているテナーに、ルクルが微笑ましいと言わんばかりだ。
「前々から父上に君を護衛騎士にしたい、ってお願いしていたからね。やっと念願が叶ったんだ。贈り物をするなら、やっぱり君の瞳の色に合った
「……え、金剛石、ですか?」
テナーは我が耳を疑う。
胸飾りを凝視していた視線が、弾かれたようにルクルに向いた。
「うん。君と同じ瞳の色と言ったら『
自分の喉奥で「ひぃっ……」と悲鳴になりそこなった空気が音を立てた。
「ま、まさか……イエローダイヤモンド……」
ヴェルナンド王国でも王族直轄地の金剛石鉱山で発掘できるかどうかと言われるほどの稀少価値が高い金剛石である。
テナーの実家である伯爵家はおろか、実業家としての顔を持つクレティタン公爵でさえ、手に入れることが難しい一品だ。
「さ、つけてあげるからじっとしてー」
もはや口を開閉するだけで失神しそうなテナーに、ルクルはあっさりとスカーフの結び目に金糸雀の胸飾りを添える。
「うんうん。やっぱりぼくの見立てに間違いはないね。君にすごく似合っているよ」
「で、でん、殿下! 私には過ぎた贈り物です! このような、高価な……どうかお手元に据え置きください! お返しいたします!」
胸飾りをつけ終えたルクルに、我に返ったテナーが叫んだ。
護衛騎士へ贈るにしても、もっと入手のしやすい宝石はいくらでもあるはずだ。
何を考えているんだ、この王子はっ!
もはや自分で胸飾りに触れる勇気すらなく、テナーは慌てた。
その様を眺めていたルクルが口元の笑みを深めたことに、動揺しきったテナーは気づかなかった。
「だ~め。もうその胸飾りは君のものだ。いらないなら、捨てるなり好きにするといいよ。でも、せっかくなら……」
ルクルの手がおもむろに伸び、そっとテナーの頬に触れた。そのままルクルの親指が、テナーの目元を優しく撫でる。テナーは全身を大きく震わせた。あまりに優しい眼差しで見つめられ、壊れものを扱うように撫でるルクルの指先の感触が、テナーの混乱した頭から胸飾りのことをすぐさま消し去ってしまう。
「できることなら、ずっと身に着けていてほしいな。ルクエス卿以上に、この胸飾りがふさわしい女性はいないよ」
にっこりと笑いかけられ、テナーは咄嗟に胸を手で押さえた。
害獣との戦闘時ですら、暴れることのなかった心臓の鼓動がうるさい。
ああ、私は夢を見ているのだろうか。
少し前の落胆が嘘のように、テナーは喜びに震えていた。何より、主従関係であるとはいえ、初めて異性から「君に似合うから」という理由だけで装飾品を贈られたのだ。
私、今ならどんな戦場でも殿下を守り抜ける自信がある。
テナーはこの時になって初めて、護衛騎士たちが主から下賜されたものを誇らしげに身に着ける理由を知った。
ルクルはこの宝石に見合うほどの価値を、テナーに見出してくれたのだ。
今なら、騎士として剣を振るうばかりの自分を誇りに思える気がした。
テナーは自然とルクルへ頭を下げる。
深く頭を垂れるのは、感激のあまり目尻から零れ落ちそうになる涙をルクルに見られたくなかったからだ。
「殿下……私、テナー・ルクエスは殿下の盾であり、剣となってこの生涯を御身に捧げます」
自分の唇から流れるように忠誠の言葉が出るなど、王都に帰還したばかりの頃は思いもしなかっただろう。
抜けるほどの青空の下、跪くテナーの足元に音もなく雫がこぼれ落ちた。