「ルクエス卿、少し休憩しよう! 疲れたでしょ?」
執務机の前で大きく伸びをしたルクルがテナーに声をかけたのは、すでに
「いいえ、私は何もしておりませんので」
テナーはルクルがサインを終えた書類を、長机に並べる。
こうして書類を分類し、各部署に届けることが、ここ最近のテナーの仕事だった。
テナーもヴァネッサで部下からの報告書やら被害届の受理やらを受け持っていたが、ルクルの仕事はテナーの比ではない。
護衛騎士の立場上、見てはいけない情報もあるが、ルクルが問題なしと判断した書類くらいなら整理を手伝える。そのかいもあったからか、書類で見えなくなっていた机が、半分程度見えるようになってきている。
せっせとテナーが書類を並べている姿を、ルクルは机で頬杖をつきながら眺めていた。彼の視線は、テナーの首元で輝く金糸雀の胸飾りに注がれている。ルクルの口端が自然と上がった。
「せっかくいい天気だし、今日は庭園でお茶にしよう」
「すぐに手配いたします」
テナーはルクルに一礼すると、処理済みの書類束を抱えて執務室を辞した。
廊下を進み、階段を降りてエントランスに出ると、侍従と侍女が控えていた。侍女の方はこの宮へやってきた初日に、テナーの案内をしてくれた者だ。
「セバス、この書類を各部署へ届けてほしい。カロナは庭園にてお茶の準備を頼む。殿下が今日は庭園で休憩なさるそうだ」
「かしこまりました」
セバスはテナーから書類を受け取り、カロナは深々と頭を下げると、背筋を伸ばして厨房の方へ向かった。
二人とも、だいぶ顔色がよくなったな。
テナーは持ち場に戻っていく二人を見送りながら、ホッと息をついた。
この宮へやってきてまだ二週間ほどだが、明らかにセバスとカロナの肌艶がよくなった。
暗殺の件で神経質になっていたのだろう。護衛としてテナーが来たことで、少しでも眠る時間を取れるようになったのは、彼らの目元のクマが薄れていることが証明してくれている。
「最初の暗殺者が護衛騎士では、無理もないか……」
白百合宮が静まり返っていた理由をテナーが知るのに、そう時間はかからなかった。
現在、白百合宮の警護を担っているのは、国王陛下と王太子殿下直属の近衛兵である。彼らに話を聞くと、陛下、王太子殿下直々の命だったそうだ。
王族にしては珍しく、親子仲、兄弟仲がいいんだな。
テナーは踵を返し、ルクルの執務室へ戻っていく。
本来、第二王子であるルクルの護衛を担うのは、ルクル自らが選んだ護衛騎士と王族を護衛する一般警護兵である。
護衛騎士だけで構成された近衛兵の一団を抱えられるのは、国王とその継承者のみだ。
最初のルクル殿下暗殺未遂事件は、その一般警護兵を統率する役割を担っていた護衛騎士が起こしたものだった。
手段は単純で、就寝前のルクルの部屋に挨拶のために訪れた際に剣を抜いた、というものだ。
階段の、最後の一段を上る瞬間、テナーは持ち上げた踵でがんっと床を踏みつける。
何度思い出しても、気分が悪い。
当時、ルクルから最も信頼を寄せられていたにも関わらず、その護衛騎士は己の主に牙を剥いたのだ。
明らかな、王族への謀反である。
確か前任の護衛騎士の生家は、ベトル侯爵家。先代の王妃を擁立した貴族派の家柄だ。
しかし、派閥にこだわらない彼の人柄を買って、護衛騎士にと推薦したのは現国王とクレティタン公爵である。
ルクルは父親と叔父の信任が厚いならと彼を受け入れ、そして前任の護衛騎士への信頼を深めていった。
ベトル侯爵家はルクル殿下暗殺の件で、すでに身分、領地を取り上げられ、一族全員処刑されている。
それが今から五年前のことで、当時ルクルは十歳だった。
その事件以来、白百合宮の警護兵や使用人への不信感を募らせたルクルは、彼らが何か怪しい動きを見せた途端、宮から追い出すことを繰り返したらしい。
セバスとカロナ、そして厨房にいる料理長のダンは、その事件後も白百合宮に残った唯一の使用人である。
初日、震えるカロナの袖口や襟元から覗いたシミ汚れをテナーは思い出す。
……さぞ、怖かっただろうな。
新たに着任する護衛騎士が信用するに足る人物か。
ここ二週間、カロナとセバスは気が気ではなかっただろう。
そんな二人が徐々にテナーに心を開いてくれていることは、テナーにとっても朗報だった。
「目下の急務は、白百合宮の人材確保だな……」
使用人が己の身だしなみを蔑ろにすることは、主であるルクルの品位を下げることにも繋がる。しかし、この宮は実質カロナとセバスの二人で維持している状態だ。
テナーも手伝える範囲で二人の仕事を肩代わりしているが、ルクルの警護をしながらでは限界がある。
第二王子が度々暗殺されかけている噂は、王宮内ではすでに有名だ。志願を募ったところで収穫があるとは思えないうえ、一般公募では暗殺者を招き入れる危険性もある。
今度、アルト騎士団長とリック副団長にも相談してみよう。
今や、白百合宮の守りの要はテナーである。下手な人選は、ルクルからの信頼失墜に繋がりかねない。
殿下のためにも、慎重に動かねば……。
テナーはルクルの執務室の前で立ち止まる。首元で輝く金糸雀の胸飾りに、そっと触れた。
殿下の期待を、裏切りたくない。
テナーは気を引き締めると、執務室の扉を開けた。その途端、胴の辺りに軽い衝撃が来る。
ルクルが飛びついてきたのだ。
テナーは難なくその小柄な体躯を支える。
「驚いた?」
目を輝かせてこちらを見上げるルクルに、テナーは愛好を崩す。
「はい、殿下。
「ははっ。……その様子じゃ、君の不意を突くのは難しそうだ」
ルクルは気分を害した様子もなく、あっさりテナーから離れる。
冗談めかして笑ってはいるが、テナーにはルクルのその行動が憐れでならない。
無意識な自衛行動は、彼の心の傷の深さを物語る。
テナーは胸が締め付けられる思いだった。
「お茶の支度が整うまで、庭園内を散策いたしませんか?」
「そうだね。行こうか!」
ルクルの手が当然のようにテナーの手を取る。そうして腕を引かれることに、テナーも段々慣れつつあった。
だからこそ、より疑問は深まる。
前任の護衛騎士からの裏切りもあったというのに、こうして私を無条件で受け入れてくれる理由は何だろうか。
今この問いを投げかけたところで、きっとルクルは答えないだろう。
テナーはルクルの柔らかな手を、そっと握りしめる。
いつか、私を傍に置きたい理由を殿下の口から教えてくれるといいのだが……。
ルクルの背を見つめながら、テナーは己の頬が僅かに熱を帯びるのを自覚した。
庭園に出ると、ルクルはテナーの手を握りしめたまま、黙り込んでしまった。
その横顔は普段と変わらず穏やかだが、僅かに寄せられた眉から、ルクルが考え事をしていることが容易に想像できる。
何か、今回の書類処理の中で、ルクルの悩みに繋がるものはあっただろうか。
騎士団からは、騎士採用枠の増員要請。
審査院からは、先月に訴追された貴族たちへの処罰に関する報告。
国防大臣と研究者たちの連名からなる「害獣対策案に関する草案」と実地調査の結果報告。
他にも地方の増税に関する嘆願書や、街道などの補修を求める申請書など、ルクルの公務はほぼ国内の事案に終始する。
これだけでも、国王からの信任が厚いことが伺えるが、ルクル曰く「兄上はぼくの倍の公務量だよ」と話していた。
王太子であるルトは国外などでのやり取りが多い。ルクルのような事務仕事より、対面での交渉事を国王から任されていると聞いている。
「……害獣被害について、気になりますか?」
テナーが花壇を眺めていたルクルに声をかけると、彼がこちらを振り向いた。僅かばかり目が見開かれている。
テナーは確信した。ルクルの書類を整理する手伝いを買って出たかいがある。
昨日も、ルクルはテナーと庭園を散策する際、しつこいほどヴァネッサでの害獣退治について話を聞きたがっていた。
「害獣に関する対策は現在、国王陛下、ならびに王太子殿下が国内の有識者やその道の専門家を招集し、調査を行っておられます。いずれ、何かしらの原因が解明されるでしょう」
「うん。そうだろうね」
ルクルは少しだけ考えるように押し黙った後、「あのさ、ルクエス卿……」と切り出す。
「三日後、王都近郊を視察したいんだ。一緒についてきてほしい」
ルクルの強い覚悟を宿した視線を前に、テナーも目をそらすことができなかった。