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Episode9 「女騎士と王子のお茶会」

「なりません!」

 気づくと、テナーは叫んでいた。

「害獣調査に関しては、すでに陛下や王太子殿下が指揮を執っておられます! ルクル殿下が身を危険に晒してまで行うことではございません!」

 白百合宮の警備体制ですらおぼつかないこの状況で、闇雲に王城の外へと出ていくなど自殺行為だ。

 そんなことは、きっとテナー以上にルクルの方がよく知っているはずだ。

「……そうだね。でも、どうしても気になることがあるんだ」

 ルクルは、その愛らしい顔に似つかわしくない調子で断言する。細められた碧眼が、揺らめく湖水のような静けさを宿している。執務室で子どものような悪戯を仕掛けてきた人物とは思えないほど、今のルクルは大人びた表情をしていた。

 いや、彼はきっとテナー以上に冷静だ。

 王族という立場から、暗殺が常に身近にあり、いつまでも幼い子どものように振舞ってはいられなかったのだろう。

 虚空を見やる彼の横顔が、ひどくもの悲しく見えるのは、テナーの思い過ごしだろうか。

「害獣調査についての報告書は読んだけれど、たぶん、今までのやり方ではダメな気がする。ルクエス卿、ヴァネッサの状況は王都の人間よりもずっと君の方が詳しいはずだ。この問題を野放しにすれば、王都はヴァネッサと同じ末路を辿る」

 ルクルの指摘に、テナーが言葉に詰まる。

「で、ですが……」

「文字だけの情報を、ぼくは信じられない。直接目で見て……本当にぼくの思い過ごしなら、その時は素直にここに帰ってくるよ」

 ルクルの視線が、こちらに歩み寄ってくるカロナに向いた。

「お茶の支度が整いました」

 優雅に一礼するカロナに、ルクルは無言で頷く。

 すぐさま彼の手が伸びてきて、テナーの腕を掴んだ。

「ルクエス卿、続きはお茶をしながら話そうか。ああ、カロナ。ぼくが呼ぶまで席を外してくれ。セバスにもそう伝えて」

「かしこまりました」

 カロナが一礼し、その脇をテナーの腕を引いたルクルが通り過ぎる。

 庭園の奥にある東屋ガゼボに足を向ければ、そこにはすでに茶器やケーキスタンドに載せられた軽食が用意されていた。

 明らかに、ルクル一人分より多い。

「殿下……」

「一緒にお茶をしてくれる相手がいないと寂しいじゃないか。ね、『ルクエス伯爵令嬢』!」

 腕を掴まれたまま、向けられるルクルの笑顔にテナーは妙な危機感を覚えた。

 心なしか、テナーの腕を掴むルクルの手の力が、強まった気がする。

「……謹んで、ご招待承ります」

 テナーはため息交じりに頷いた。

 すると、満足した様子でルクルの手が離れる。

 ルクルが席につくと、テナーは彼の対面に腰を下ろす。

 湯気を上らせる茶器を手に、交互にカップへ紅茶を注ぐ。

 芳しい花の香りが鼻先を掠めた。これはラベンダーだろうか。それに、ラベンダーの上品な香りに混じって、さっぱりとしたものが混じっている。こちらは少量のミントが加えられているのかもしれない。

「毒見をいたします」

 テナーがルクルの前にカップを置くと、まずは先に自分のカップに口をつける。

 紅茶を口に含んだ途端、芳醇なラベンダーの香りが広がる。しかし、甘いその味にアクセントとして加わる爽やかなミントの風味が後味をすっきりとしたものにしていた。

「問題ございません」

 カップをソーサーに戻した途端、ルクルの手がテナーの茶器を奪っていく。

「ありがとう」

 礼の言葉とともに、ルクルはテナーが口をつけたカップに唇を寄せる。

 テナーは一瞬、叫びそうになった。

 ……ちゃ、茶器にも毒が塗ってあるかもしれないからな。

 自分に言い聞かせるようにして、ルクルの前に置いたカップを引き寄せる。火照る顔をごまかすように、勢いよく紅茶を喉へ流し込んだ。そのせいで、小さく咽る。

「このお茶、気に入った?」

 ルクルがハンカチをこちらに差し出しながら首を傾げる。先程までの悲しそうな雰囲気は微塵も感じさせない。

 いつもの、テナーが知る甘い表情マスクの第二王子の顔だ。

「はい。疲れが消えていく心地です」

 テナーは気まずい心地で、カップをソーサーに戻した。ルクルから拝借したハンカチで口元を押さえる。

「カロナに伝えておくよ。彼女のブレンドは兄上にも好評なんだ」

 小さく肩を揺らしながら笑うルクルに、テナーは小さく息を吐いた。

「……先程のお話の続きですが、どうしても殿下が視察に赴かねばならないとおっしゃるのなら、護衛騎士である私は殿下の御身をお守りすることが務め。殿下のご意思に異議を申し立てることはございません。ですが、せめて御身の安全を確保するためにも――」

「連れて行くのは君だけでいい。他はいらない」

 テナーの言わんとしていることを、ルクルは先回りした。

「視察と言ってもお忍びだ。目立つのはまずい。何より、ルクエス卿もその方が動きやすいはずだよ」

 ルクルの意味深な笑みは、テナーの核心を容赦なく突いた。

 護衛騎士として、要人警護に軸を置いた戦闘経験はテナーにはない。いざ不測の事態に陥った時、他の護衛兵たちと足並みが揃わなければかえってルクルの身を危険に晒すことになるだろう。

「殿下は……私を信頼できますか?」

 テナーはカップの中で揺れる紅茶に視線を落とす。

 害獣退治の功績から、テナーの実力は認めてくれているだろう。しかし、護衛騎士に必要不可欠なものは、主からの信頼だ。

 どのような状況に陥っても、護衛騎士の判断に主が従ってくれなければ警護は成り立たない。

 できるなら、殿下との信頼関係をもう少し築けている状態だと望ましかったのだが……。

 テナーは悩ましげに眉間のしわを深めた。

 三日後は、さすがに急すぎる。準備も整わないだろう。せめて、あと一週間はほしい。けれど、ルクルの様子から視察を急いでいる様子だ。事情はわからないが、彼のことだ。よほど重要なことなのだろう。

「ぼくが君を疑うことはないよ」

 ルクルは優雅な仕草で紅茶を喫すると、流し目をケーキスタンドにやった。

「殿下、どうか本心を私にお伝えください」

 テナーは三段目に置かれたサンドイッチを小皿に取り分ける。二皿のサンドイッチを半分ずつに切り、両皿の欠片を口へと運ぶ。

「自らの命が脅かされた瞬間、あなたは私に己の命を無条件で預けられますか?」

 テナーはもう、遠回しな言い方をやめた。

 残った二皿のサンドイッチを一皿に移し、すべてルクルへ差し出す。

 するとなぜか、ルクルがムッと唇を尖らせた。不満げな表情が、テナーを睨む。

「当たり前だよ。他でもない、君を選んだのはぼくなんだから」

 ルクルは拗ねたようにサンドイッチを頬張る。彼は頬杖をついてそっぽを向いた。

「ご不快になられたのなら、申し訳ございません。私とて、殿下のお心を疑うつもりはございません。ただ……」

 そこから先は、言いよどむ。

「君の前任がぼくを暗殺しようとしたからと言って、君がそれを後ろめたく思う必要はないだろう?」

 テナーは顔を上げてルクルを見つめる。彼の視線は庭園の花壇に向けられたままだが、彼の指先は卓上で拳を握りしめているテナーの手にそっと触れていた。

「ぼくは、傍に残す人間にはこだわるんだ。そして君はぼくに選ばれた。なら、余計な考えには捕らわれず、自分の役目を全うしてくれればいい」

 ルクルの目が、テナーに向いた。真っ直ぐこちらを見つめる雪解けの湖を思わせる双眸は、波打つ様子もない。感情の波が凪いだような、こちらの姿をただ映すだけの瞳。

 テナーはルクルの瞳に、吸い込まれそうな感覚を覚えた。

 ああ、溺れてしまいそうになる。

 ルクルの手のひらが、腕を引きかけたテナーの手を掴んで押し留めた。まるで「ぼくから離れるな」と言われているような心地になる。

 それが「騎士」としてのテナーを求めての行動だとわかっている。頭ではわかっていても、テナーはざわめく胸の内を鎮めることができなかった。

 勘違いしそうになる。

 胸飾りを贈られた時のように、テナー自身を求めてくれているのではないか、と。

 そして、そんな考えに至る自分の甘さに、嫌気が差した。

 じっと紅茶のカップを見つめていると、突然、目の前にケーキの切れ端が割り込んできた。肩を震わせ、身を引く。

 すると、フォークで切り分けたケーキをテナーに差し出すルクルの顔が、悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「はい。はやく食べて。ぼくも食べたいから」

「あ……申し訳ございませ、ああ、自分で切り分けますから……殿下、いったんこれを下ろしてください」

 混乱して、謝罪と主張が入り混じってしまった。慌てるこちらの様子を、ルクルは楽しそうに眺めている。そして、フォークに差したケーキの欠片をテナーの口元へぐいっと突きつける。

「これは君への謝罪だよ。ぼくのことでいっぱい悩んでいるみたいだからね。ほら、口開けて」

「そんな、謝罪など……」

 テナーはルクルの笑顔を前にまごついた。もごもごと唇を無意味に動かしていたが、ルクルが引かない様子なのを見て諦めて口を開く。

 ルクルがそっとケーキをテナーの口の中へ差し入れた。甘いクリームと、やや酸っぱさの残るベリーの味が口内に広がる。

 テナーの唇についたクリームを、ルクルはそっとフォークで拭い去る。そのまま、あろうことかルクルはフォークについたクリームをぺろりと自分の舌で舐めとった。

「……っ⁉ で、でん……っ!」

 テナーの声がひっくり返った。

 せっかく収まった熱が、頬に集まる。

「三日後、朝早くに出るよ。そうだ、カロナに言ってお弁当を用意させよう。せっかく窮屈な宮から外出できるんだもん。ピクニックなんていいよね」

 狼狽えるテナーの心境などつゆ知らず、ルクルは呑気な提案を口にする。

 テナーはもう、降参とばかりに項垂れた。

 見た目が愛らしいせいでつい忘れていたが、ルクルは「社交界の華」と呼ばれる第二王子だ。

 いちいち反応していたら、こちらの心臓が持たない。

 幼さの残る顔で、どこか危うい艶やかさを併せ持つ己の主を前に、テナーは疲労の濃いため息をこぼしたのだった。


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