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Episode10 「予期せぬ再会」

 この人は、私の忍耐力の限界を試しているのではないか。

 テナーは時折、ルクルに怒りにも似た苛立ちを感じずにはいられなかった。

 うっすらと靄が立ち込める早朝。しかし、ヴェルナンド王城は夜の静寂の名残が色濃く残っている。

 夜間の見張りを担当している警護兵は、そろそろ交代の時間だ。この時刻がもっとも彼らの気が緩む時間帯でもある。

 湿り気を帯びた芝生を踏みしめると、細かな朝露がテナーの革長靴ブーツをしっとりと濡らした。頭からはフードを被り、全身を薄汚れた外套マントで覆っている。

 こんな出で立ちでは、城内の警護兵に暗殺者と間違われても仕方がない。

「殿下……何故、このような……」

「しっ、見つかるよ」

 己の前を進むルクルに非難がましく声をかければ、こちらを振り向いたルクルが素早く人差し指を己の唇に当てる。彼もまた、テナーと同じように粗末な外套で全身を覆っている。

 ルクルは呆れているテナーを余所に、きょろきょろと通りを見回し、テナーの手を引いて厩へと急ぐ。ルクルに手を引かれながら、テナーは眩暈を覚えた。

 三日前、ルクルから「視察に行く」と言われ、てっきり国王陛下や王太子殿下から許可が下りているものと思っていた。

 だからこそ、テナーは視察に赴く際の馬車の手配や警備に関する諸々の手続きを三日の間に済ませなければならないと覚悟したのだが……。

「ああ、その辺は心配ないよ」

 ルクルのこの一言を信じたのがそもそもの間違いだった。

 まさか早朝、警護を担う近衛兵たちの目をすり抜け、王宮をこっそり抜け出すことになるなど、誰が想像できただろうか。

 確かに、ルクルは「お忍び」とも言っていた。しかし、お忍びとはいえ、王族の視察行程は国王陛下ないし王太子殿下へ報告することが義務付けられている。

 ルクルが暗殺の脅威にさらされていることで、陛下も王太子殿下もかなり神経質になっていると聞く。ご自身の警備が甘くなることを覚悟の上で、近衛兵を白百合宮周辺に配しているのがその証左だ。

「殿下、どうか思いとどまってください。さすがに、これはいただけません」

 厩にたどり着くなり、テナーはルクルに忠告する。

「どうして? ぼくにはルクエス卿がいるから大丈夫だよ?」

「殿下に信頼をいただけることは私にとっても大変名誉なことではございますが、御身の安全を最優先にするならば、せめて陛下か王太子殿下に行き先をお伝えせねばなりません」

 でないと、白百合宮がハチの巣をつついたほどの騒ぎになるだろう。

 いや、それだけならまだいい。

 前任同様、ルクルを暗殺しようとしたとしてテナーの首が胴から飛びかねない。

「いつものことだし、兄上も父上も気にしないと思うよ? セバスやカロナもルクエス卿に何も言ってなかったでしょ?」

「いつもこんな風に抜け出しているんですか……⁉」

「王城内に長く住んでいるとさ、色々と抜け道とか見えてくるもんなんだよ~」

 くすくすと悪戯の成功した子どものようにルクルは笑っている。

 だが、テナーはまったく笑えない。

 王城の警備に不備があるのか、ルクルの好奇心と行動力が高すぎるのか。

 どちらにせよ、ルクルのこの調子ではテナーがいくら諫めたところで聞かないだろう。

 もう、どうにでもなれ……。

 テナーはもう諦めきった表情で、乾いた笑い声をもらすばかりだった。

 厩の扉を押し開くと、馬房の中で休んでいた白翼馬ペガサスたちが一斉に顔を向けてくる。

 ルクルに急かされ、厩に入ったテナーはすぐさま己の愛馬を見つけた。厩の中でも、入り口に最も近い馬房を割り当てられていた。

「可愛い子だね」

 ルクルが目を輝かせ、そっと手を伸ばす。

 テナーの愛馬も、大人しくルクルの手のひらに自ら鼻先を押し付けていた。

「『トゥルカ』と名付けました。聞き分けのいい、賢い子です」

 テナーはそっと目を細め、愛馬の首を撫でる。

「トゥルカ……確か、北方の雪原に住む冬の女神が跨る神馬の名前だよね。ヴェルナンド王家より以前の古語で、『星』を意味するって聞いたことがある」

「さすがは殿下。ご存知でいらしたのですね」

 テナーはトゥルカを馬房から出すと、鞍とあぶみくつわなどを装備する。そうしてトゥルカの装備を終えると、ルクルへ手を差し出した。

「お手をどうぞ、殿下」

 ルクルは一瞬だけ、テナーの手を無言で見つめる。

「殿下?」

 テナーが首を傾げると、ルクルはいつもの無邪気な笑みを浮かべてテナーの手に己の手を重ねた。

「何でもないよ」

 ルクルはテナーの手を借りて、ひらりとトゥルカにまたがる。

「わぁっ! 白翼馬なんて初めて乗ったよ! ルクエス卿、はやく飛んで!」

「そう急かさないでください」

 テナーはルクルの背後へひらりと飛び乗ると、鐙に足をかけ、軽く手綱を打つ。ゆっくりとトゥルカが馬房から外へと進み出る。

 テナーは空を仰ぐ。朝靄のかかった城壁は、地上からトゥルカの全長程度のあたりまでしか視認できない。

 視界の悪い中での飛行は特に気を遣わないと、トゥルカに怪我を負わせてしまう。

「殿下、しっかり掴まっていてください」

 テナーがルクルに促すと、トゥルカの腹を軽く蹴った。小さないななきとともに、翼を広げたトゥルカの蹄が地上から離れる。

 テナーはトゥルカを操り、ひたすら真上に飛んだ。城壁を越えた高さで飛べば、障害物への衝突は避けられる。朝靄に包まれた中で、テナーは手綱をゆっくりと緩める。

「ルクエス卿、あっちに向かって飛んで」

 さてどちらに進もうかと思案していたテナーに、不意にルクルがある一点を指差した。

 ルクルが指し示す先は靄の中で白く霞んでおり、地上が見渡せない。

「承知いたしました」

 テナーはルクルの指示に頷いた。

 ゆっくりとその場で旋回して方角を定め、ルクルが示す方角へ進む。先の見通せない白い靄が、やがて二人の乗る馬影をゆっくりと飲み込んでいった。

 靄の中をしばらく進むと、やがて目の前が徐々に開けていく。

 山の端から昇る陽光が、微睡む地上を撫でるように照らし出した。

 テナーは眼下に横たわるファーナ川を確認した。

 現在位置は王都ウルタから北西、西に向けて森林地帯が広がっている。

 私たちが王都への帰還途上で寄ったのは、あの辺りだ。

 テナーがファーナ川の河川脇をじっと見下ろす。まだ、あれから二週間と少ししか経っていないと思うと、妙な感慨を覚える。

「ルクエス卿、あの森を目指して。少し行った先に村があるはずだよ」

「……承知いたしました」

 ルクルの指示に、テナーは眉根を寄せた。

 あの森に村などあっただろうか。

 しかし、テナーがヴァネッサへ着任してすでに五年の歳月が流れている。村の一つや二つ、新たにできていてもおかしくはないと思い直した。

 馬首を巡らせ、ルクルの指示に従い森を目指す。入り口の辺りに差し掛かったところで、高度を下げた。

「ここからは地上を行きます」

 トゥルカの蹄が柔らかな草地を踏みしめる。広げていた両翼を畳むと、トゥルカはゆったりとした足取りで木漏れ日の中へと進み出た。

 舗装はされていないが、通りやすい道だ。ルクルの話す通り、人の往来があるからだろう。

 しばらく進むと、小さな沼に出た。水草が茂る沼は、この時期に咲く淡い桃色の花で覆われている。

「ここからは徒歩だよ。トゥルカには悪いけど、ここで待ってもらえるかな?」

「わかりました」

 ルクルの言葉に頷くと、テナーはトゥルカから降りた。ルクルに手を貸し、地面へと下ろす。

「トゥルカ、しばしここで待て。すぐ戻る」

 テナーがトゥルカの首筋を撫でると、頭をすり寄せたトゥルカが鼻を鳴らした。

「こっちだよ」

 ルクルの先導のもと、テナーは地面が平たく固められた獣道を進む。すでに太陽は山の端から東の空高く上り、目覚めた野鳥たちのさえずりが木々の間からこだまする。

 その中で、テナーは木々の枝葉の間に除く、不可思議な飾りをいくつも見た。

 木材加工の際に出た木くずを、円形に削って模様を彫ったものようだ。辛うじて「目」の意匠は確認できるが、細かく刻まれた他の模様はテナーも知らないものだ。

 神殿で扱われているものではなさそうだ。土着の習俗だろうか。

「着いたよ。だいぶ畑も広がったみたいだ」

 ルクルの声に、テナーはハッと我に返った。視線を前に向ければ、森の中に数件の家屋が経っている。柔らかく掘り返した土には、均等に植え付けられた作物が瑞々しい若葉を広げている。

 畑では、村人らしき数名の男女が朝の勤めに精を出していた。

「これは殿下! お久しぶりでございます!」

 ルクルとテナーのもとへ足を引きずりながら歩み寄ってきたのは、二十代くらいの若者である。

 赤茶けた短い髪に、灰色の双眸、顔にはそばかすが目立っていた。

 若者はテナーに目を向けるなり、息を呑む。テナーも目を見開いた。

「小隊長殿⁉」

「お前は……ガゼルか⁉」

 ヴァネッサでともに戦い、三年前の害獣討伐の折に負傷したかつての部下との再会に、テナーは驚きの声を上げた。


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