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Episode11 「黒い影」

 テナーとルクルは、ガゼルの住む家に招き入れられた。

 家の中は木の香りに満ちており、生活用品のほとんどが全て森の中で揃う材木や蔓草で作られたものだった。

「まさか、小隊長殿が殿下の護衛騎士に昇進されるとは……これも、歳月の三女神様のお導きなのでしょう」

 ガゼルは懐かしそうに目元を緩ませている。

「ガゼルも変わりないようで安心した。私が小隊長に就任したばかりの頃だから、もうあれから四年になるのか……」

 テナーも表情を和らげる。

 しかしその視線は、どうしても彼が引きずる右足に向いてしまった。

「確かに騎士としてはもう戦えませんが、妻を迎え、こうして幸せに暮らしております。今の故郷(ヴァネッサ)の様子も、噂程度には村に定期的にやってくる商人たちから聞いております」

「その商人たちが先日、ヘビーボア大猪の襲撃を受けたんだ」

 テナーとガゼルが話しているところへ、ルクルが用件をねじ込んでくる。

 ルクルを振り向けば、彼はその愛らしい唇を尖らせていた。

 傍目からも、ひどく不機嫌そうだ。

「商人たちが、害獣に襲われたのですか⁉ それで、皆さんはご無事で⁉」

「ああ、全員無事だよ。ここにいる、ぼくの騎士が彼らを無事救い出してくれた」

 身を乗り出したガゼルに、ルクルは誇らしげにテナーを振り向く。二人の視線を一身に受け、テナーは「たまたまその場に居合わせただけです」と苦笑する。

「よかった……皆さんが無事で」

 浮かせていた腰を、ガゼルは椅子の背もたれへと戻す。しかし、その表情は先程までと打って変わって険しさを増した。

「今回の一件を受けて、騎士団に掛け合って商人たちに護衛をつけることにした。ただ、最近の害獣騒動で騎士団も人手が確保できない。護衛してくれる騎士たちが決まらなければ、商人たちもしばらく動けない。そこで、彼らが商いを再開できるまで、代わりの者を立てようと思う」

 ルクルは懐をごそごそと探り、一枚の木片を取り出した。割り印だろう。刻まれた文字が右側に寄っており、切断されている。

「しばらくは不自由な思いをすることになる。けれどしばしの間だけ、辛抱してほしい」

「もったいないお言葉です。殿下のご配慮に、感謝申し上げます」

 割り印を押し抱きながら、ガゼルがルクルに頭を下げた。その目が、感激のあまり涙ぐむ。

「さて、ここからは害獣被害の話だ。君たちの村には被害はなかった?」

「はい。殿下のご配慮のおかげで、何不自由なく過ごしております。ただ……」

 不意に、ガゼルは口ごもる。彼の視線が、テナーを伺い見た。

「ルクエス卿も今回の件の当事者だ。関わった以上、何が起きているのか知るべきだと思う」

 ルクルがガゼルの意を組んで言葉を添えた。ルクルの視線を受け、テナーも力強く頷く。

「はい。王都近郊においても、五年前にヴァネッサで初めて害獣被害が起こった時と同じような状況に陥っています。ヴァネッサにて害獣討伐の任に携わっていた身としては、知らないわけにはいかない」

 前半はルクルに向けて、後半はガゼルに対して、テナーは己の考えを示した。

 ガゼルは机上に視線を彷徨わせた。

 手にした割り印を硬く握りしめる。

「実は……また、『黒い影』を見たのです」

 ややあって、ガゼルはぽつりとこぼした。

「黒い、影?」

 ガゼルの思い詰めた表情に、テナーは目を鋭くした。

「私がまだヴァネッサで、騎士として勤めていた頃のことです。時期的には、小隊長殿がヴァネッサに着任する少し前になりましょうか……」

 ガゼルは己の記憶を手繰り寄せながら、虚空を見つめる。

「その頃のヴァネッサは、今のように害獣によって頻繁に襲撃を受けることはありませんでした」

 ガゼルの言葉に、テナーは複雑な思いでそっと目を伏せる。

 ヴァネッサは荒れ野を切り開き、水路を引いて町として発展した経緯がある。

 歴史的に見ても、ヴァネッサはヴェルナンドと隣国ケトルッカの国境線、数多の戦火に晒されてきた。

 そんなヴァネッサの町が発展していくには、霊獣の助けは必要不可欠だった。王国内でも霊獣たちの助力によって町を活気づけていた町だけに、五年前の霊獣が理性を失って暴れ回った事実は町の人々を大いに驚かせ、そして絶望をもたらした。

 テナーがヴァネッサに着任した頃にはすでにかの町は霊獣にさえ怯え、時に自分たちの手で霊獣を殺そうとさえしていた。

 霊獣殺しは、ヴェルナンド王国では大罪である。

 神々の祝福と加護を受けた霊獣は、王国では人間のよき友、隣人であり、霊獣側も人々の危機にはその身を守護し、窮地から脱する方法を示して導いてくれることがあった。

 テナーが着任して早々携わった任務は、混乱するヴァネッサの人々と霊獣たちを引き離し、双方の安全を確保するものだった。

 やがて、霊獣たちへの信頼を失ったヴァネッサの人々の心を支えたのが、ヴェルナンド王国における「銀月の乙女」……隣国ケトルッカでは「死の女神」と呼ばれる夜の女神への信仰だった。

「女神の下に召されてしまった団長……小隊長殿はご存知ないかと思いますが、現在のヴァネッサ騎士団支部の団長の前任にあたる方です。かの方には報告申し上げたのですが……最初の霊獣が暴走した事件の前夜、私ともう一人の見張り役だった同僚が、荒地の方で揺らめく不審な『影』を目撃いたしました」

 ガゼルは割り印を両手で包み、硬く握りしめる。彼の額から浮いた汗は、その時の情景を思い出したことによるものだろう。

 見開かれ、血走ったガゼルのまなこは、彼が長年その影の恐怖に震えていたことが伺える。

「最初、私も同僚も……それが『影』だとは認識できませんでした。小隊長もご存知の通り、ヴァネッサは荒れ野を開拓した町……町を離れ、双子岩を通り過ぎた先はテメレッカ砂漠です。日中は灼熱の太陽で地上が熱せられ、陽炎が風景を歪ませることは日常茶飯事です」

 最初は陽炎だと気にも留めなかった、とガゼルは呟く。やがて、彼の両手がゆっくりと開かれる。割り印が、からんっと乾いた音を立てて机上に落ちた。

「それからしばらくして……私と同僚が夜の見回りに立っていた時です。荒れ野に、再び揺らめく黒い『影』が現れました。ここでようやく、私たちは異変に気付いたのです」

 ガゼルは両手で顔を覆う。彼の全身が小刻みに震えていた。

「その『影』というのは、どんな姿形をしていたんだ?」

 テナーは鋭い視線をガゼルに向ける。

 しかし、ガゼルは緩く首を横に振った。

「わからないんです。人影かな、と思えばそんなように見えますし、霊獣の影かな、と思えば獣のような姿に見える……私たちも自分たちが目の当たりにしている現象を不気味に思っていて……念のためにと前任の団長へご報告したのです。けれど……逆に叱責されてしまいまして」

 ガゼルの言葉に、テナーは「……そうか」と頷くより他なかった。

 前任は、ガゼルたちの報告を「職務中の飲酒」と片付けたようだ。ガゼルとその同僚も、自分たちが幻を見たのだと叱責されてしまえば、それ以上深堀りすることもなかったのだろう。

 そうして、ヴァネッサで最初の害獣被害が起こったのだ。

「四年前のあの大攻勢で、私とともに『黒い影』を目撃した同僚と前任の団長は戦死しました。運よく怪我だけで済んだ私は……もう生きた心地がしませんでした」

 テナーは当時を思い起こす。

 当時のヴァネッサ騎士団支部の団長戦死を受け、副団長だった現ヴァネッサ騎士団支部の団長が次期団長に就任。しかし、その間も度重なる害獣たちの侵攻により、ヴァネッサ騎士団支部は崩壊の危機に晒されていた。

 そこで目下、害獣たちの猛攻を防ぐため、着任早々、華々しい功績を収めたテナーが実践部隊を統括する小隊長へと就任し、前線に立つ騎士たちを直接指揮したのだ。

 そうして、ヴァネッサ騎士団支部の内部の立て直しを図り、どうにか現在まで組織体系を維持してきたのだ。

 当時のヴァネッサで、テナーを含めた指揮官たちは、兵士一人ひとりの声を拾い上げている余裕はなかった。

 今なら、ガゼルがなぜあれほど必死にヴァネッサを離れたがったのか、その理由を理解できる。

「その黒い影を、この王都近郊でも目撃したのか?」

 テナーは硬い表情のまま、ガゼルに問う。

 ガゼルは弱々しく頷いた。

「それはいつで、場所はどの辺りだった?」

 それまで腕を組んでガゼルとテナーのやり取りに耳を傾けていたルクルも、ガゼルを促す。

「……三週間ほど前だったと思います。この村を出て森の奥に、石材で作られた神樹の祠と呼ばれる場所があります。その近くで木の実を採っていた娘が『祠に人がいる』と言ったのが始まりです。心配した妻の代わりに、私が様子を見に行って……祠の前に佇む例の『影』を目撃しました」

 そこでガゼルはグッと唇を引き結ぶ。

「間違いない……あれは、ヴァネッサで見たものと同じものだ。また、ここでも霊獣たちが暴れ出す。ああ……また、皆死んでしまう」

 ガゼルの震える声が、うわ言のように恐怖を吐露し続ける。沈黙の下りた室内で、彼の震える声だけが虚しく響いていた。


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