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Episode12 「女騎士の惑い」

 その日の夜、白百合宮内の一角で、テナーは愛剣を手に素振りをしていた。

 刃が空を切る音は、鈍い。

 自分の中に生じた迷いが、剣先にまで現れている。

 ヴァネッサにいた頃から、悩み事があると無心に剣を振るっていた。

 鍛錬になる上、気持ちを整理する意味でもこの習慣は欠かせない。

「はっ!」

 気迫を込めた掛け声とともに、剣を振り下ろす。

 正眼の構えのまま静止し、しばらくして剣身を鞘へと戻す。

 頬や首筋を伝う汗とは裏腹に、テナーの気持ちはすっきりしない。

 それもこれも、ルクルの視察の途上で知った事実を、自分の中で受け止めきれていないためだ。

 私は、辺境の地ヴァネッサで何をしていたんだろう。

 ガゼルの証言通り、もしも「黒い影」なる存在がヴェルナンド王国の霊獣たちに何らかの悪影響を及ぼしているのだとすれば、もっとも被害が深刻なヴァネッサでこそ調査にあたるべきだった。

 霊獣たちがテナーたちの誘導もなく、ヴァネッサに近寄らなくなった理由も、もしかすると住民たちによる迫害ばかりが理由ではないのかもしれない。

 霊獣は賢い。しかし、人との意思疎通ができるわけではない。

 女神に与えられた加護が強い霊獣であれば話は別だろうが、テナーたちが接しているような白翼馬たちのような一般的な霊獣は人語を介さない。

 テナーは呼吸を整えながら、グッと唇を噛み締めた。

 ルクルは「黒い影」の存在を知っていた。

 テナーが最西端で五年も戦い続けてきた中で、ルクルは害獣被害の原因を解明するために、独自に避難してきた人々の話に耳を傾けていたのだ。だからこそ、ガゼルの証言に行きついたのだろう。

 今日、わざわざ城を抜け出して視察に行ったのも、今回の一件に「黒い影」が関わっていると確信していたんだ。

 亡くなった前任のヴァネッサ騎士団支部の団長ですら信じなかった、一介の元・騎士の証言を、ルクルは笑うことなく深刻に受け止めた。

 だからこそ、王都の害獣被害により一層危機感を抱いたのかもしれない。

 ガゼルは、どうしてその後も騎士団の誰かに相談しなかったのか。

 テナーの中で、ガゼルへの言い知れぬ怒りがわき起こる。

 短い間だったが、お互いに命を預けた仲間だ。この国の第二王子よりも、テナーたち騎士団の仲間の方がずっと身近だったはずだ。

 たとえテナーに相談しづらくとも、他にも一緒に過ごしてきた仲間もまだまだ大勢いたはずだ。

 そこまで思考が巡った後、テナーは剣の柄を握りしめていた手を緩めた。

「いや、違うな……」

 相談できるわけがない。

 度重なる害獣の襲撃に、騎士団は寝る間もなく戦場を駆っていた。目の前で負傷し、苦しみで呻く仲間たちを前に、士気を下げるような妄言を話すことなどできなかったはずだ。

 何より、ガゼルの上官となったテナーは、当時十三歳の小娘だった。

 実力は認められても、指揮官としての器まで信用されたわけではない。

 頭ではわかっている。けれど、溢れる感情が納得しようとしない。

 単純に、悔しかったのだ。

 害獣騒動に関しては、テナーは最前線で戦ってきたのだ。

 誰よりも、この国の深刻さを目の当たりにしている自負があった。

 しかし、戦場で命をかけることが常のテナーと違い、ルクルは王族であり、王宮で守られる立場だ。そんな彼が、テナーの知らない情報を知っていた。

 暗殺の影を常に背負いながらも、ルクル自らが進んで人々の声に耳を傾けていたがゆえの成果だ。信頼を寄せていた護衛騎士に裏切られても、彼は腐ることなく現在、害獣被害に苦しんでいる国民の安全を第一優先としたのだ。

 テナーは鞘に納めた剣先で地面を突いた。

 ガンっと金具が大きな音を立てたが、苛立つテナーの気は晴れない。

「何が『王国最強の騎士』だ……何も、見えていないじゃないか」

 王族の護衛騎士に指名された時、テナーは心の奥底で、ルクルを侮っていた。

 視察に行くと言い出した時も、戦場のことなど何も知らないくせに、と害獣騒動の件で無闇に首を突っ込まないでもらいたいと感じたほどだ。

 口ではルクルの身を案じるようなことを言いながら、結局、テナーはルクルを常に「守られる側」へと置こうとしたのだ。

 けれど、ルクルは笑ってテナーが引いた境界線を越えていく。

 守るべき立場のテナーよりも、先を歩いて行ってしまう。

 自分が目で見たものだけを信じるのだと、危険を顧みずに踏み出していく彼の小柄な背が、テナーには大きく見えた。

 テナーは右手の甲で頬に触れる。

 もう汗はかいていない。

 それでも、火照る頬の熱を取り除こうと、強く手の甲で擦った。瞼を下ろすと、自然と眉間に力がこもった。

「こんなこと、初めてだ……」

 今までテナーが関わってきた人々は、テナーが傍にいると必ず一歩、後ろに下がった。

「守る側」のテナーを邪魔しないために。

 そして、その刃で自分たちを「守ってもらう」ために。

 いつから、それが「当たり前」になっていったのだろう。

 それもこれも、己の自惚れに他ならない。

 もしも過去に戻れるなら、王都に帰還したばかりの自分を殴ってやりたいと強く思う。

 やはり……私はルクル殿下の護衛騎士にはふさわしくない。

 今からでも護衛騎士を辞し、ルクルを心から尊敬し、彼に忠義を捧げてくれる新たな騎士を迎えるべきだろう。

 テナーは身に着けた胸飾りをそっと撫でる。

 ルクルがテナーに贈ってくれた初めての胸飾り。

 彼のことだ、テナー自身のことを考え、期待したからこそ準備してくれたはず。

 そんな彼の期待を、テナーは裏切った。

「……許せない」

 私は、私を許すことができない。

 ため息とともに、熱を帯びた目元を右手の甲で押さえた。

 どうにかして護衛騎士の任を解いてもらい、ヴァネッサに戻してもらおう。そのためにも、まずは白百合宮の人員を確保しなければならない。

 ルクルはこの国に必要な人だ。

 そんな彼が命を脅かされ、このように寂しい宮でこれからも過ごすようなことがあってはならない。

 明日にでも、殿下に相談して、騎士団長との面会を取り付けねば――


「ルクエス卿? 泣いているの?」


 ボーイソプラノの心地よい声が、テナーの名を呼んだ。

 弾かれたように顔を向ければ、僅かに開けた窓から顔を覗かせたルクルの顔があった。

 ルクルがこちらを気遣うように、その深みのある碧眼を細めている。

「殿下……このような時間にいかがされましたか?」

 テナーはすぐさまその場に跪く。そっと顔を伏せた。これ以上、ルクルに己の情けない姿を晒したくはなかった。

「眠れないから、ちょっとだけ散歩。それに、カロナが教えてくれたんだ。ルクエス卿が夜になると、よくこの辺で鍛錬しているようだって……どうせなら見学させてもらおうと思って」

 ルクルの言葉に、テナーはさらに頭を下げた。

「申し訳ございません。皆様への配慮に欠く行動でした……お許しを」

「え? いや、騎士が鍛錬をするのは普通のことでしょ? それに、騒がしくしたわけじゃないんだから、別に謝らなくていいよ」

 ルクルが慌てたように言葉を紡ぐ。その度に、下を向いたテナーは歯を食いしばった。

 彼の優しさが、今はひどく胸に突き刺さる。

 せっかく収まったのに、再び目元に熱がこもった。

「まもなく夢入の時午後22時にございます。どうぞ、お部屋にお戻りください」

「……ルクエス卿、泣きそうな表情してたよね?」

 ルクルはテナーが最も触れてほしくない話題に言及する。

「久しぶりに体を激しく動かしたためにございます。お見苦しい姿で申し訳ございません。今後はもう少し鍛錬を重ね、殿下の護衛騎士にふさわしい振る舞いを心がけます」

「ねぇ、はぐらかさないでよ」

 ルクルの声が、低くなる。

 テナーが僅かに顔を上げれば、窓枠に両腕を乗せ、身を乗り出すルクルの姿があった。

 シャツにガウンを羽織っただけの寛いだ格好だが、それでも彼の所作には隠しきれない品がある。

「殿下、あまり身を乗り出されますと危険です。おやめください」

「ルクエス卿、誰かにいじめられたの? 視察から戻ってきてからも元気なかったけど……もしかして、誰かに何か言われた?」

「そのように、殿下を煩わせるようなことは何もございません。私のような者にまでお心を砕いていただき、ありがとうございます」

 ルクルの心遣いが、苦しい。

 これ以上、私の心に踏み込まないでくれ。

 テナーは会話を打ち切るように立ち上がった。

「殿下、あまり夜遅くまで起きておられますと明日の公務にも障ります。どうか、お休みください」

 どうかこのまま何も聞かずに立ち去ってくれ、とテナーはひたすら心の中で願った。

 今のテナーに、ルクルの顔を正面から見つめ返すことはできなかった。


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