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Episode13 「雪解けに溺れる」

「ルクエス卿、ちょっと待っていて」

 その場で頭を下げ続けていると、ルクルが動く気配がした。がたんっと大きな音がしたため、反射的に顔を上げる。

「殿下⁉ 危のうございます!」

 顔を上げたテナーはギョッと目を見開いた。

 なんとルクルは大きく窓を開け放つと、窓枠に足をかけて外に出ようとしているのだ。

 しかも、足は柔らかな布製の室内履きのままだ。そのまま窓から飛び降りて着地しては、足を痛めてしまうかもしれない。

「おやめください、殿下!」

 テナーは剣を放り出して、窓辺に駆け寄る。

 飛び降りようとしたルクルの前に立ち、窓の両側の壁に手をつく。テナーは己の全身で、傾いた姿勢のルクルの身体を受け止めた。

 その瞬間、ルクルの両手がするりとテナーの首に回った。

「殿下、支えておりますゆえ、手を離してください」

 不安定な姿勢で不安になったのだろうと解釈し、テナーはルクルの背にそって手を添えた。ルクルは身を僅かに離す。

 しかし、解かれた右手が下ろされることはなく、そのままテナーの頬に添えられる。

 驚くテナーの視界が、ルクルの悪戯っぽい笑みでいっぱいになった。

 その雪解けの湖水を思わせる碧眼に見つめられ、テナーは一瞬呼吸を忘れる。

「ルクエス卿。本当にぼくのことを思うなら、隠し事はしないでほしいな」

 ルクルの眦が僅かに下がる。

 いつもは見下ろす形になる愛らしい顔が、テナーと同じ目線にあった。

「前に暗殺されかけた時……ぼくはぐっすり眠ることができない夜が続いたんだ。周りにいるみんなが、心の内ではぼくを恨んでいるんじゃないかって、怖くて仕方がなかった」

 でもね……、とルクルは表情を和らげる。

「ルクエス卿。君が来てくれてから、ぼくは毎晩ぐっすり眠ることができるようになったんだよ! ルクエス卿がいつもぼくの身の安全を考えて動いてくれているのがわかるから、ぼくは安心してまたあちこちに出ていけるんだ」

「……なぜ、そこまで私を信頼していただけるのですか?」

 テナーは不安な心地から、気付くと聞き返していた。

 ルクルに素直な感情を向けられる度に、テナーは背筋を何かが這うような居心地の悪さを感じた。

 学生時代、互いに直接の接点はなかったはずだ。言葉も交わしたことのない、赤の他人になぜそこまで入れ込むことができるのか。

「もしかして、ぼくが君を護衛騎士に指名した理由がわからなくて不安に感じているの?」

 ルクルは合点がいったと言わんばかりに明るい表情を浮かべる。

 実際は、それだけではないのだが……違うとも言えないので、テナーは静かに頷いた。

「まぁ、学生時代、お互い話したことなかったものね。でも、ぼくは君をずっと見ていたんだ」

 ルクルはそこまで言うと、照れくさいのか、はにかんだような笑みを浮かべる。

「実は偶然、君がこっそり学園の裏庭で剣を振るっていたのを見たんだよ。剣を振るいながら、ドレスの裾がこうふわりと浮かんで……最初は貴族のご令嬢が剣を振るっているなんて珍しいなって思って。それで君に興味がわいたんだ」

 テナーは息を呑んだ。

 まだテナーが見よう見真似で剣を振るっていた頃のことだ。

 ルクエス伯爵家の令嬢として、礼儀作法やダンスなどを習いながら、その影で剣を振るっていた。

 もちろん、両親には内緒だ。話したところで、反対されるのは目に見えている。

 この頃には、テナーは自分が普通の令嬢のような振る舞いをしても不自然さが際立つことを自覚していた。

 そのため、己の長身を生かして令息たちが受けている剣術の授業を遠目から観察し、こっそりその動きを裏庭で実演していたのだ。

「令嬢」として振舞っても嘲笑わらわれるだけ。であれば、令嬢たちが夢見る、強さを兼ね備えた「騎士」になろう。

 テナーはそう心に誓い、己の本音こころを胸中に固く封じた。

「……お見苦しいところを、お見せいたしました」

 テナーはそっと顔を伏せる。そうして、瞳を輝かせてこちらを覗き込むルクルの視線から逃げた。

 貴族の令嬢が、騎士に憧れて剣をとる。ヴェルナンド王国の動乱期ならば、そんな貴族令嬢の一人や二人はいたかもしれない。

 実際、テナーも王太子から授与された「白薔薇勲章」、その受勲者であった女性たちはその半数が名誉の戦死を遂げている。

 ルクルの真っ直ぐな瞳を前に、テナーは心臓を抉られるような痛みを覚えた。

 私はただ、逃げたかっただけだ。

 固く封じたはずの本音が、テナーの奥底から這い出ようとしていることに焦りを覚えた。銀月の乙女が支配する永久凍土の氷原のごとく、その奥底に沈めた幻想りそうが、ルクルによって解かれようとしている。

 このままでは、せっかく作り上げた「騎士わたし」が壊れてしまう。

 テナーは一歩、身を引こうとした。しかし、テナーの頬に添えられていたルクルの手が、テナーの右肩を掴んだために距離をとることは叶わなかった。

「見苦しいなんてとんでもない! 君の剣術は、まるで銀月の乙女が悪神を切り裂くかのように、優雅で、この世のものとは思えない美しさだった!」

 こちらを見つめるルクルの笑顔に、目が眩んでしまう。

 自分の中で、目を背け続けたものが大きく軋む音がした。

「だからこそ、ぼくは君を護衛騎士にしたいと心から願ったんだ! 騎士としても、一人の女性としても……ぼくは君を尊敬している! 君のように高潔で、その美しさを損なわない強さと品位を持つ者は、君を置いてこの世に二人といないよ!」

「やめてください!」

 テナーは堪らず叫んだ。肩を掴むルクルの手を払いのけ、呆ける彼から距離をとる。

 自分の名を呼ぶルクルの声も、まるで調律せずに放置したリュートを無理やりかき鳴らしたかのようにテナーの頭を強く揺さぶった。像を成さない、揺れる視界に吐き気を覚える。

 どうして、ルクルの言葉にこうも動揺するのか。

 テナーは胸を押さえ、浅い呼吸を整えようと必死に視線を彷徨わせる。

「ルクエス卿……?」

 ルクルの手が、テナーに伸びる。

 ほっそりとした白い手が、月光を浴びてその色をさらに強めた。

「っ! 失礼、いたします!」

 テナーは半ば叫ぶように、ルクルの前から駆け出した。

 背後から名を呼ばれるが、振り返ることはできなかった。

 庭園を横切り、以前、ルクルとお茶をした東屋ガゼボに駆け込む。きざはしにつま先をとられ、あっと声を上げる間もなく膝をついた。じんっと手から頭にかけて響く痛みに、ようやくテナーは大きく息を吸い込んだ。

 重い身体を引きずり、柱に背を預ける。震える手で、胸元で輝く金糸雀の胸飾りを握りしめた。

「なんで、こんなことに……」

 呟いた声は、自分でも驚くほどかすれていた。熱を帯びた目元を慌てて手で押さえても、そこからこぼれた雫を止めることができなかった。

「殿下の言葉は、『騎士』である私には、この上ない栄誉じゃないか……」

 己に言い聞かせる言葉は、嗚咽によって途切れ途切れとなる。

 テナーは右手で己の左肩を掴む。すると、ルクルの手のぬくもりがそっと左肩を掴むテナーの手に添えられたように錯覚した。

 ルクルの賛辞は、テナーのこれまでの努力を肯定してくれるものだった。

 王都へと帰還し、ルクルの護衛騎士となってガゼルや害獣騒動について知られざる事実を知ったことで、テナーが失いかけた騎士としての自信を、ルクルはテナーへの尊敬と賞賛でもって取り戻してくれた。

 それにも関わらず、テナーはその言葉にひどく心を傷つけられた。

 その瞬間に、テナーは己の中で育っていた恐ろしい感情を理解した。

「私は、『騎士』だ。そうであり続けなければならない……」

 テナーがルクルの傍にいられるのは、テナーが「騎士」であるからだ。

 皆が望む理想の「騎士すがた」として振舞ったからこそ、ルクルもテナーを受け入れ、信頼してくれているのだ。

「ルクエス伯爵令嬢」のままであったなら、きっと言葉を交わすことも難しかっただろう。

 その事実に、テナーの悲しみは目から止めどなく流れる涙へと変わって落ちていく。

 身の危険を顧みず、害獣被害を解決しようと調査に乗り出すルクルの横顔に、テナーは目が離せなかった。

 テナーの愛馬を前に、好奇心と慈愛を滲ませた笑顔を見せたルクルに、安らぎにも似た心地よさを感じた。

 テナーの頬に触れ、この瞳を覗き込んで微笑む彼の優しさに、そのまま溺れて身を委ねてしまいたかった。

 テナーの手が、冷たい石の卓に触れる。

 三日前、ルクルはここでテナーを「令嬢」としてお茶に招いた。その事実が、とどめをさすようにテナーの心の氷塊に亀裂を生じさせる。

「ああ……私は、私は……」

 石の卓に触れていたテナーの手が、力なく東屋の冷たい石の床へと落ちる。

 涙で滲んだ瞳で、夜空に浮かぶ銀月を仰いだ。銀月はただ冷ややかに、涙を流すテナーを見下ろすばかりだった。

 この日、「騎士」としての仮面を被り続けた一人の令嬢は、寒々とした月光を浴びながら、守るべき己の主に抱いた恋心を自覚した。


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