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Episode14 「第二王子の思惑」

 手を払いのけられ、走り去ったテナーの背を見送ったルクルは、じんっと鈍い痛みを訴える己の手を見つめた。

 白い柔肌が、やや赤みを帯びている。ルクルの唇が痛む己の手のひらに近づいた。

 ルクルの顔に、妖艶な笑みが浮かぶ。

「ふふっ、うまくいった……」

 細められたルクルの双眸は、獲物を狙う狩人のように凪いでおり、テナーに振り払われた手のひらをそっと己の唇に当てて笑みを深めている。

「酷なことをなさいますね」

 暗がりから、足音もなく近づいてきたのはグレイブだ。相変わらず表情に乏しいその顔は、僅かに眉をひそめている。

 今までのやり取りも、影ながら見守っていたのだろう。

「……グレイブ、邪魔しないでくれる? 今、ものすごくいい気分なんだ」

 苦言を呈するグレイブに、ルクルは一瞥を送ることもなく言い放つ。

 ルクルの碧眼は、もはや姿を消したテナーの背しか見えていない。彼女の後を追うように、ルクルの目は彼女の逃げ去った方角へ一心に向けられていた。

「ルクエス卿の『加護』は『騎士』としての己の心情に直結しています。それを揺るがされては……一歩間違えれば彼女の理性すら破壊されかねません」

 それをお望みですか、とグレイブが静かに問いかける。

 しかし、ルクルは平然と頷いた。

「それも魅力的だね。そうしたらぼくが一生、彼女の面倒を見られるわけだ。悪くない」

 ルクルが嬉しそうに両手で己の頬を包む。幼子が甘い砂糖菓子を口の中で転がすような、うっとりとした表情だ。

 ルクルがひどく大真面目に頷いたからか、グレイブが珍しく顔を顰めた。

 ルクルの返答に、グレイブは右手で額を押さえる。

「一途な思いも……拗らせるとここまで歪むものですか」

 それは相手への語りかけというより、独白に近いものだった。

「ぼくが伴侶として迎える相手は、後にも先にもテナーだけ。それ以外の女なんて興味ないよ」

 スッとルクルの双眸から、それまでの恍惚とした光が消える。口元に変わらぬ微笑をたたえながら、ルクルの双眸は凍てつく怒りを宿していた。

「それなのに……人々は『王国最強の騎士』だなんて言葉でテナーを縛り付け、彼女を孤独の夜月に閉じ込めようとしている。自分たちだけが幸福でいればいいと、テナーの苦しみを見ようとも思わない。そして不幸にも、テナーは強い。ゆえに、彼女の『加護』は年々その力を強めていった」

 本当に腹立たしいよ、とルクルの冷たい微笑がグレイブに向く。

「だから、ぼくはテナーを不幸にする連中を一人残らず消してやるのさ。だからこそ、彼女にいつまでも『騎士』にこだわり続けてもらっちゃ困る」

 くすくすと無邪気に笑うルクルを、これほど不気味に感じることが過去にあっただろうか。

 グレイブはこっそりとため息をついた。

 傍目からルクルのこの微笑む姿だけを見るならば、確かに己の仕える主は紛うことなき「天使」である。

 しかし、一度その腹の内を覗けば、彼の中に渦巻く「悪魔」のような素顔が相手の喉元に己の牙を突き立てようと息を潜めている様を目の当たりにすることだろう。

 この人だけは、絶対に敵に回してはいけない。

 グレイブの本能は、いつだって相手の人間性を正しく判断してくれる。

「それで? 例のものは回収したの?」

 ルクルはようやく、グレイブに事の進捗を尋ねた。

 テナーに向けるような甘く、とろけた笑みではない。それはどこか無粋な相手を、冷ややかに見つめる時の表情に似ている。

 自分に向けられた表情ものでないことをグレイブは承知しているが……一瞬、どうしても全身が強張ってしまう。

「はい。やはり、『神樹の祠』の傍に放置されておりました」

「今回、発見された遺骸の身元は?」

リトル・ハミング蜜に酔うハチドリです。王都近郊の森に生息する霊鳥の一体であり、ヴェルナンド王家が代々、守護神と称える『朔風の歌い手』の加護を受けた種族の一つです」

「そう」

 ルクルの返答は素っ気ない。

 実際、興味もないのだろう。

 自分の一族が信仰する神ですら、目の前の麗しい少年の関心を惹きつけることはできないようだ。

 彼の執心は、いつだって一人の女性に注がれている。

 その事実に、グレイブはもはや哀れみを通り越していっそ清々しい心地である。

「殿下。どうかお考え直しください」

 グレイブは僅かに眉根を寄せ、ルクルを非難するように語気をやや強めた。

「ルクエス卿の存在は、此度の霊獣騒動……ひいては、殿下の暗殺にも関わってくるのです。ルクエス卿をこれ以上、お傍に置いてはなりません。かの女騎士は、戦場へと還してやるべきです」

「さっきのルクエス卿の顔、見た?」

 ルクルは再び鼻歌でも歌いそうな調子で、窓枠に腰かけたまま、宙に浮かせた両足を交互に上げ下げしている。

 グレイブは嫌な予感がした。脈絡のない話題転換は、ルクルが無理難題をこちらに表明するときの前触れである。

「思い悩む横顔もすごくそそられたけど、やっぱりぼくが頬を撫でた瞬間のあの表情がいちばんグッと胸にきたね。初めて女性として触れられたことによる羞恥。騎士という立場にあるという背徳感に耐えて引き結ばれた唇。そのくせ、揺れる金糸雀の羽色の双眸はぼくからの熱を乞うように濡れていた……ああっ! もう! テナーを抱きしめたくて仕方のなかった理性を抑え込んだぼくを皆が称賛すべきだよ! 『社交界の華』であり、『ヴェルナンド王国の麗しき天使』と名高いこのぼくが! テナーにだけはこの惜しみない愛を真摯に向けているんだから!」

「いや、殿下。普通に気持ち悪いです」

 堰を切ったように早口でまくしたてるルクルに、グレイブは珍しく表情を引きつらせていた。しかし、ルクルの耳に、グレイブの言葉は届かなかった。

 ルクルはパッと両腕を広げて夜空を統べる銀月を仰ぎ見る。

「テナーの心に『ルクルぼく』という存在のくさびを打ち込むのに、九年もの歳月を費やしたんだよ!? その間、どれだけ彼女を絡める『加護』を恨んだことか……」

 銀月を見据えるルクルの双眸が、鋭さを帯びる。

 憎悪。憤怒。そして、布告。

 グレイブは冷笑を浮かべるルクルを、沈痛な面持ちで眺めていた。

「いいかい、グレイブ。ぼくは必ずやルクエス卿を『騎士』の呪いから解き放つ」

 雪解けの湖水の中に、鮮やかな銀月を映しながら、ルクルは落ち着いた声音で続けた。

「そのためにも……ぼくは彼女が築きあげた『騎士』としての誇りをすべて打ち砕く。それがかつて、彼女自身が求めた願いでもあるから。その願いを叶えられるのは……この王国の『守護者』であるぼくを置いて他にはいない」

 ルクルの視線がグレイブに向けられる。

 グレイブはただ、無言で頭を垂れた。

「回収した霊鳥の遺骸を使って、奴の痕跡を追え。ただし、決してルクエス卿に気取られるなよ」

「……はい。心得ております」

 有無を言わせぬ厳命に、グレイブはただ諾と答えるしかなかった。そのまま、彼の姿は月光によって大地に映し出された木々の影の中へと消えていく。

 ルクルはグレイブの姿が消えると、身をよじって窓枠から室内へと戻る。室内履きが、床に敷かれた絨毯を踏みしめる。

「さて……ルクエス卿の次の行動は『逃亡』だろう」

 軽やかな足取りで、ルクルは身を翻した。自室へと戻っていく途中、これから起こるであろう予測を立てる。

 テナーがルクルを異性として意識したなら、彼女はきっと「騎士」としてルクルの傍から離れることを考えるはず。けれど、彼女は弱い者を中途半端な状態で放り出すことは決してしない。

 おおかた、白百合宮にルクルが信頼をおける使用人を増やそうと動くはずだ。カロナやセバス、ダン辺りに「誰か、相談できる相手はいないだろうか」と聞くに違いない。そして、その足でぼくのもとへやってきて、深刻な表情でこう切り出すはずだ。


「殿下、白百合宮の警備を強化したいと考えます。どうか、お許しいただけないでしょうか」


 ルクルは口端を上げた。腕組みし、右手を顎に添えると「ふふっ!」と上機嫌に笑った。

「許すわけないじゃん。君はぼくの大事なだいじな『お姫様レディ』なんだから」

 さて、明日のテナーの申し出に、ぼくはどう答えて彼女の思惑を跳ねのけてやろうか。

「どうしたら、彼女はぼくに酔いしれ、落ちてきてくれるかな……」

 穏やかな微笑を浮かべたルクルの囁きが、自室の扉が閉まる音ともに静寂の中へと消えていった。


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