テナーは銀月が浮かぶ冬の湖を眺めていた。夜空に、瞬く星々の姿はない。
氷に覆われた冬の湖面だけが、テナーの足元に広がっている。
そっと膝を折り、湖面を覗き込む。
月光に薄っすらと浮かぶ氷面に、テナーの輪郭が映し出される。
その瞬間、氷の表面に見慣れた情景が浮かんだ。
広い室内で、ドレスに身を包んで踊る幼い少女の姿があった。
楽しそうに細められた金糸雀の羽色の双眸が、次の瞬間、悲しみに染まる。
「テナー様、淑女がそのようにはしゃいではなりません。それに足さばきも乱雑……毎日しっかりとダンスの基礎練習をしていますか?」
かつて投げかけられたダンスの先生の言葉が、テナーの胸を刺す。
凍てつく冷気がテナーの足首を掴んだ。
すると、氷面はまた別の情景を映し出す。
「俺の婚約者が、お前に夢中なんだ!!」
怒りをはらんだ少年の声に、複数の令息に囲まれたテナーは呆れ顔を浮かべている。
「だからどうしたんだ? 私も同じ女。あなたの婚約者を奪い取ることなんてできないでしょう?」
「だからって! あいつがお前ばかり褒めて、俺と比べて……っ! 気に入らない!」
少年の叫びは、幼いながら傷つけられた自尊心を取り戻すように、手にした木剣をテナーへ振り下ろす。
それをテナーは足で少年の手元を蹴り上げることで、己に振り下ろされた木剣を遥か後方へと飛ばした。
「悔しいのなら、相手が望む振る舞いを身につけなさいよ。憤りを覚えるなら、相手に八つ当たりしていないで、己を磨きなさいよ。ここで私に難癖をつけたところで、状況が変わるわけではないでしょう?」
テナーも声の限りに叫ぶ。けれど、それは令息たちの「うるさい!」という一喝でかき消された。
「女のくせに、男みたいなお前が悪い!」
冷気が、そっとテナーを背後から抱擁する。頭上に輝く銀月は、表情を失くしていく少女の姿を静かに映し出すばかりだ。
そして、次に映し出された情景の中では、騎士団服に身を包んだテナーが剣術の訓練をしていた。
傍には、当時テナーの所属する部隊の隊長であったアランが腕組みをしてテナーを指導していた。
「今日はここまで」
「はい。ありがとうございました!」
背筋を伸ばして敬礼するテナーに、アランが背を向ける。傍には、後に副団長となるリックの姿もあった。
「やはり惜しいな……男でないために、筋力が伴わない」
アランの呟きに、リックが静かに頷く。
「なら、剣撃の速さと奇襲を念頭に置いた訓練に切り替えればいい。彼女のしなやかな動きなら、それで十分渡り合える」
「人間、相手ならな。しかし、今の騎士団の討伐対象は害獣だ。テナーの膂力ではどうしても押し負ける……」
テナーの双眸から光が消える。
手をついた湖面から、冷気が這い上がってきた。そうして、身動きできずにいるテナーに、湖面に映し出されたもう一人の己が囁く。
「もう私には、どこにも『居場所』なんてないんだ」
かすれた悲鳴に、目を覚ました。
テナーは荒い息をつきながら、天井を見つめる。朝日の差し込む自室は、まだ薄暗い。
おそらく、まだ
テナーはゆっくりと寝台から身を起こした。なぜだか、妙に目元が腫れぼったい。
そっと指先で目元に触れる。まるで泣きはらした後のように、腫れていた。
「なぜ……泣いて?」
嫌な夢を見た気がする。そのせいだろうか。いや、そもそも、私はいつ自室に戻ってきた?
テナーは軽く首を振って、ぼんやりする意識に喝を入れる。
昨夜、白百合宮の片隅で鍛錬をしていた。そこで、ルクルに会ったのは覚えている。少し会話もした。何を思ったのか、ルクルが窓枠から飛び降りようとして、それを止めるためにテナーが彼の身体を支えたのだ。
「あ……」
テナーは額を押さえた手を、ゆっくりと下ろす。ぽすんっと皺の寄ったシーツに腕が落ちた。
「私、殿下の手を振り払って……」
ひやりと嫌な汗が頬を伝う。汗を左手で拭おうとして、強く握りしめていた胸飾りに気づいた。
一晩中、握りしめていたようだ。テナーの手のひらや指先に、金具が食い込んだ痕があった。赤紫色に変色した己の皮膚が、テナーをすぐさま現実に引き戻した。
「仕える主に、なんてことを……」
すっかり目が覚めたテナーは、全身を小刻みに震わせる。
王族に手を上げるなど、不敬罪で厳罰だ。まして、謝罪するどころかテナーはルクルの前から逃げ出し、
「……さすがに、失望されたかな」
テナーは苦笑とともに乾いた声で笑う。
真冬でもないというのに、テナーは凍えたように冷たい己の腕をそっとさすった。
騎士として、あるまじき失態。
ルクルの護衛騎士になってからというもの、己の至らなさに嫌悪する。まだヴァネッサで害獣相手に剣を振るっていた時のほうが気が楽だった。
「殿下に謝罪をして……それから、正式に護衛騎士の任を解いてもらおう」
せめて、自分の意思でこの役割を降りたい。ルクルに「お前はもういらない」と告げられてしまったら、テナーはきっともう立ち直ることができないと思った。
ルクルの笑顔が脳裏を過り、胸が痛む。
静かな自室を見回し、「ああ……」と思い出した。
「カロナとセバスに、白百合宮の使用人を増やすために相談しておかないと」
この後、ルクルに謝罪に行って護衛騎士を解任されるにしても、最後にそれだけはどうしてもやり遂げたかった。
短い間だったとはいえ、愛らしい笑顔の影で、己の勤めを淡々とこなすルクルの背がひどく寂しそうにテナーには見えたからだ。
テナーは身支度を整えると、サイドテーブルの引き出しから小箱を取り出す。そこに、ルクルから下賜された胸飾りを収めた。
護衛騎士でなくなる以上、戦場に戻るテナーに
未練を断ち切るように、テナーは小箱の蓋を乱暴に閉めた。小箱を上着のポケットにねじ込むと、テナーは自室を出た。
すると、ちょうど向かいの廊下からカロナがシーツの山を籠に詰めて運んでいる姿が見えた。
「カロナ」
テナーは足早に彼女に近づく。
カロナも足を止め、こちらを振り返った。
「おはようございます、ルクエス卿」
「おはよう。少し聞きたいことがあるんだが……少しいいだろうか?」
テナーはカロナからさりげなく籠を受け取ると、神妙な表情で続ける。
「私が白百合宮へ配属されて、間もなく三週間ほどになる。殿下のご懸念もわかるが、さすがにこのまま、一向に新たな使用人の配属がないのも問題だと思っている。そこで、君やセバス、ダンの知り合いの中で誰か、相談できる相手はいないだろうか?」
テナーの問いかけに、カロナは少しだけ顎を引いた。
「ルクエス卿のご懸念はもっともでございます。ですが、白百合宮に召し上げる使用人に関しては、主であるルクル殿下がお決めになることでございます。我々はその決定に従うまでにございます」
カロナは淀みなく答えた。あまりの模範解答ぶりに、テナーは取り付く島もない。
「……そうか」
「はい。ですので、ルクエス卿のご意見はルクル殿下に直接、お伝えすべきかと存じます」
言ってカロナは、両手を伸ばしてテナーの腕から洗濯籠を取り返した。
そのまま僅かに頭だけを下げ、洗い場へと去っていく。
「あの様子では、セバスやダンも同じような意見だろうな……」
テナーは大いに顔を顰めた。
ルクルと顔を合わせたら最後、テナーは白百合宮を出て行かねばならない。
「カロナの手伝いを口実にできなくなってしまった……」
テナーは肩を落とし、階段を降りて二階のルクルの執務室へ向かう。
執務室の前の扉で立ち止まると、テナーは緊張で震える拳でノックする。
「殿下、テナー・ルクエスです」
訪いを告げ、返事が来るまでの間、自分の心臓の音が周囲の静寂の中でいやに耳についた。
「……殿下?」
テナーが徐々に落ち着きを取り戻す一方で、背筋を悪寒が駆けた。
いつまで待っても返事がない。
テナーは「失礼いたします!」と扉を開けて室内へ踏み込む。
山と積まれた書類が、ルクルの執務机を占拠している。窓はカーテンで閉め切られ、昨日から人の出入りした形跡はない。
テナーの顔から血の気が引く。
「殿下!」
テナーは執務室を飛び出すと、そのまま階段を一息に飛び降りる。
中庭へ出てぐるりと周囲を見回す。よくルクルがお茶を飲む際に使っている
最近、殿下が気に入っている場所は……。
テナーの視線が、白百合の花が咲き誇る花壇へ向く。夏が間近に迫った中庭では、白百合の花々が陽光を受けて輝いている。宮殿の名の由来にもなる白百合は、ルクルの執務室から臨むとまるで白い絨毯のように壮観な眺めだ。
テナーの視線は白百合の花々の先、ひっそりと木陰に立つ薔薇のアーチを捉えた。
薔薇の庭園は、季節折々の薔薇が植えられている。その群落をまるで迷路のように剪定しているため、初めてこの宮を訪ねてきた人間はすぐに方向を見失ってしまう。
ルクルは深く考え事をするときや一人になりたいとき、よくこの薔薇園の中に籠るのだと、カロナから以前に聞いたことがある。
テナーは意を決して、薔薇のアーチをくぐった。