目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

Episode16 「凍てつく抱擁」

 朝の芳醇な薔薇の香りが、アーチの下に満ちていた。

 テナーは注意深く歩を進める。

 薔薇園内の順路は、テナーもまだうろ覚えなところが多い。よそ見をして順路を見失ったら、テナーも道に迷ってしまう。

 アーチを抜けた先は、石を敷き詰めた道が左右に分かれている。

 テナーは迷わず左の道を進む。その先はやや開けた広場になっている。手入れの行き届いた芝生に、長椅子ベンチが置かれていた。

「ここではないのか……」

 テナーはさらに奥へと進む。小さな噴水を備えた池の脇を抜け、代々のヴェルナンド王家が祀っている「朔風の歌い手」の石像の前に出た。

 風を操り、季節を生み出した風の男神おがみは、伝説ではヴェルナンド王国建国の祖を守護し、荒れ果てたこの地を蘇らせたとされる。

 その風神の「何者にも囚われない自由さ」を表現するため、絵画や彫刻では吟遊詩人の姿で表現されるのが常だった。

 もしかすると、殿下は朔風の歌い手の生まれ変わりなのだろうか……。

 石像の男神は麗しい少年の姿をしており、それがテナーにはルクルとひどく似ているように思えた。捉えどころのないところなど、そっくりである。

「はぁ……。殿下、一体どこに……?」

 テナーが石像から視線を外し、再び薔薇園内を探し回る。一通り巡ったところで、再び薔薇のアーチのところへ戻ってきてしまう。

 そこへ、背後の茂みが大きく揺れた。

 テナーは反射的に腰を落とし、剣の柄に手をかけて振り向く。

「ルクエス卿!」

 薔薇の茂みから、両腕を広げたルクルの満面の笑みが飛び出し、間近に迫ってきた。

「でんっ――⁉ 危ない!」

 テナーは瞬時に剣の柄から手を離すと、両手でルクルを受け止める。しかし、勢いを殺し切れず、テナーはルクルを抱きしめたまま背中から芝生の上に倒れた。

 ルクルの髪にくっついていた薔薇の花びらがひらりと落ち、甘い香りがテナーを包み込んだ。

「っ……殿下! ご無事ですか⁉」

 倒れた拍子に後頭部を打ったが、まずは主の身の安全である。

 焦るテナーとは裏腹に、ルクルはテナーの顔の両脇に手をついてにこにこしている。

「えへへ、捕まえた~!」

 悪戯が成功して無邪気に笑う彼に、テナーは急速に毒気を抜かれた。

 同時に、ホッと胸を撫で下ろす。

 ルクルの明るい笑顔は、昨夜のやり取りなどなかったかのように普段通りだ。

 とはいえ、この体勢はいただけない。

 護衛騎士の身とはいえ、テナーとて女。

 これでは傍目から、ルクルが護衛騎士を押し倒しているような状況だ。

「殿下、お戯れが過ぎます……。お願いですから、そこをどいてください」

「え~? やだ!」

 いい笑顔でさらりと拒絶するルクルに、テナーは苛立ちを覚えた。

 まったくこの悪戯王子は……人の気も知らないで。

「殿下、あなた様のお立場もございます。どうかこのように軽率な行いは――」

「ぼくをどかしたいなら、実力行使すればいいじゃない。昨夜みたいにさ」

 テナーが諭そうとすると、ルクルは左手をテナーの目の前で軽く振った。

 昨夜、テナーが振り払った手だ。

 サッとテナーの表情が強張ったのを見ると、ルクルの笑みが深まる。細められた視線が、まるでテナーの顔を余すことなく撫でるように注がれていた。

「申し訳ございません。……お守りすべき殿下の御手を、傷つけてしまいました。護衛騎士として、恥ずべき行いです。いかなる処罰も、甘んじてお受けいたします」

 後悔と罪悪感から、ルクルを直視できず、テナーの視線はルクルが背負う青空へ向いた。だいぶ大きくなった白い雲が、のんびりと西の方へ流れていく様が見える。

「そう? なら、そのまま動かないでね。これ、『命令』だから」

 テナーが声を上げるより先に、ルクルが動いた。彼の唇が、テナーに近づく。

 目を見開くテナーの前で、ルクルはそっとテナーの額に口付けた。

「で、殿下!」

 羞恥に、テナーの顔が赤らむ。咄嗟に、テナーの両手がルクルの二の腕を掴んだ。

「あれ~? どんな処罰も、甘んじて受け入れるんじゃないの~?」

 衝撃からそれ以上言葉を紡げないテナーを見下ろし、ルクルはその天使のような愛らしい笑みを向けてきた。

「こ、このような行いは、罰には……いや、そもそもの大前提として! こういった行いは意中の女性に対して行うものでして!」

 テナーは顔を真っ赤にしながら必死に訴える。焦りと羞恥のせいでだいぶ早口になったが、動けば鼻先が触れそうなほど近い位置にルクルがいるので、テナーの言いたいことはすぐに伝わった。

「そういえば、昨夜もぼくに聞いてきたよね。『なぜ、そこまで私を信頼していただけるのですか?』だっけ?」

 ルクルの額が、テナーの額に触れる。そうして目を閉じたルクルを、テナーは頬を染めたまま見つめていた。長い金色のまつ毛が震えるたび、テナーの中でも熱いものがこみ上げてくる。

「やめ……」

 これ以上、ルクルの口から出る言葉を聞けば、取り返しがつかなくなる。

 テナーの直感は、無情なほど的中した。

「初めて君が剣を振るっていた姿を見て、心惹かれたんだ。この世には、これほど美しい人がいるのか、と。気づいた時にはもう、君の姿をいつも追っていた」

 ルクルの唇が、そっとテナーの頬に触れる。自分でも大げさなほど、テナーは身を震わせた。

 瞼を硬く閉ざしていると、ルクルの唇がその上に落とされる。左の瞼、右の瞼にキスを落とされ、そのまま流れるようにテナーの鼻先にルクルは唇を寄せてきた。

 額、頬、瞼、鼻先。

 ここまでくれば、さすがのテナーもルクルが己に向けてくる感情を理解してしまう。

「殿下、おやめください。私は、あなたの……」

 テナーはルクルの唇から逃げるように顔を背ける。逃げたい一心での行動だったが、それがテナーにとって致命的なものとなった。

「君が『騎士』を志すのなら、その気持ちを尊重してあげたいとは思うよ。けれどね、君は本心ではそう望んでいなかったはずだ」

 あろうことか、ルクルはテナーの耳に唇を寄せて囁くとそのまま耳朶に口づけたのだ。

「ひぃっ!」

 テナーは小さく悲鳴を上げた。首をすぼめ、涙目になったままルクルを睨む。

 しかし、こちらを見下ろす碧眼は、凪いだように静かだった。一心に、けれど熱のこもった眼差しで見つめられ、テナーは余計に動けなくなった。

「や、めて……」

「本当に嫌ならぼくを突き飛ばせばいい。君が不安になるなら、ここで宣言してあげるよ。たとえ君がぼくを全力で突き飛ばしても、ぼくは君を罰しない。昨夜のことだって正直、ぼくは君を罰するに値しないと思っている。だって、ぼくが君を傍に置くのは君に『騎士』であることを求めていないからね」

 ルクルの左手が、テナーの頬をそっと撫でる。まるで壊れ物を扱うかのような、優しい手つきだった。

「でも、それでは父上を説得することができない。『婚約』を申し入れるにも、ルクエス伯爵が家出した君の代わりに、君の妹をぼくに差し出してきたら面倒だし……だいぶ悩んだんだよ?」

 ルクルは眉間のしわを深め、テナーを非難がましく見つめる。

「そ、そんなこと、言われましても……」

 テナーはただ、落ち着かない心地でルクルを見上げることしかできなかった。

 熱を帯びたルクルの双眸は、まさに愛する女性へ向けるものだとわかる。

 今まで、不本意ながら多くの男性の嫉妬を買ってきたテナーだからこそ、その真剣さを見間違うはずがない。

 男性が思いを寄せる女性へ向ける熱い視線を、テナーは自分には決して向けられないと知りながら、心のどこかで熱望していた。

 さすがに、この国の第二王子であるルクルから、そんな熱烈な感情を自分に向けられるとは思いもしなかったのだが……。

 テナーは、全身から力が抜けていくのを自覚した。ルクルを制止するために掴んだ両手は、もはや彼に縋りついているような有様だ。そんな己の中で溢れる熱を、テナーの頬を撫でるルクルの手のひらを通じて彼に伝わってしまいそうで怖かった。

 視界が、涙のせいで歪んでいく。いっそ、このまま意識を手放してしまえればどんなに楽だろうか。熱に浮かされたように顔は火照るのに、まるで全身は氷水に浸かっているかのように冷えていく。

「テナー?」

 初めて、ルクルの唇がこちらの名を呼ぶ。

 しかし、テナーは返事ができなかった。

 ルクルの目が見開かれる。何を驚いているのかわからないが、テナーは急速に訪れた眠気に抗うので必死だった。

 どうして、急に……?

 鈍磨する思考の中で、テナーは落ちかける瞼を必死に開こうとする。

「くそっ、また邪魔する気か……っ!」

 ルクルの悪態が、どこか遠くで聞こえた。

 テナーは全身を包む冷気に、そっと全身を抱きしめられたのを感じた。

「殿下、離れてください……」

 意識を手放す瞬間、テナーは掴んでいたルクルの腕を離す。彼の服の袖がびっしりと白い霜に覆われているのを目の当たりにして、テナーは暗い湖の底に落ちるように瞼を閉ざした。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?