薔薇園の一角は、テナーを中心に白銀に輝く霜に覆われていた。焦点を失った彼女の両目が、蒼空を宿している。
まるで人形のように己の意思を手放したテナーは、氷像のように儚げな美しさを宿していた。
「くそっ、『銀月の女神』め!」
全身を白い霜に覆われて横たわるテナーの傍で、ルクルは顔を歪めた。
それは彼女に触れている両手の痛み以上に、ルクルの内からわき起こる憎悪によるものだった。
死を司る女神にして、死者の先導者。
全身を白銀の鎧で覆った戦乙女の姿で称えられる銀月の女神は、己が加護を与えた者に「孤高」であることを望む。
「お前なんかに、テナーを渡しはしない! 絶対に……」
ふと、ルクルの視線がテナーの左手の傷に向いた。
昨夜の時点では、見当たらなかったものだ。手のひらと指先の皮膚が鬱血している。何かを強く握りしめていたようだ。
息を呑んだルクルが、テナーの首元を見つめる。
普段、彼女が身に着けている金糸雀の胸飾りがなかった。上着のポケットが不自然に膨らんでいる。ルクルは彼女の上着のポケットから小さな小箱を取り出す。
中には、ルクルがテナーに贈った金糸雀の胸飾りが収められていた。
ルクルは胸飾りを手に取ると、テナーの左手にそっと当てる。指先の鬱血と、胸飾りの金具の後がぴったりと一致した。
ルクルは唇を震わせ、愛してやまぬ女騎士へ囁きかける。
「ああ……テナー、君も抗っていたのか」
恐らく無意識のうちでの行動だろう。しかし、ルクルにとっては光明だった。
「君の心に、『
テナーの頬に触れ、ルクルはそっとその唇に己のそれを重ねた。身を刺す冷気に包まれながらも、ルクルは決してテナーから離れようとはしなかった。
やがて、テナーの唇が微かに動いた。その途端、ざわりと冷気が強まった。女神の焦りを感じとり、ルクルは胸飾りをテナーの手のひらに押し付ける。そのまま、互いの指を絡めて握り合った。
テナーの唇が僅かに開いた。ルクルは角度を変えて、己の舌をテナーの中に差し入れる。そうすることで、彼女の意識を自分に向けさせようとした。
身を震わせるほどの冷気が、やがて霧散した。
だいぶ高くなった陽光を受け、白銀の霜が徐々に結露へと変わって地面へ落ちていく。
すぐに動けなかったルクルも徐々に体の感覚を取り戻し、ゆっくりとテナーの上から身を起こす。
胸を規則正しく上下させて眠るテナーは、普段よりもずっとあどけない表情だった。
ルクルの指先が彼女の目元に触れようとして、虚空で止まる。
「無茶な真似をなさいますね」
「相変わらず、間のいいやつだね」
ルクルは背後に立つグレイブを仰ぎ見た。
グレイブは眉根を寄せたまま、手にした救急箱を地面におろす。そうして、ルクルの両手に素早く薬を塗ると清潔な布を当てて包帯を巻いていく。
「しかし、驚きました。本当に、銀月の女神を退けるとは……」
やり方はかなり原始的で強引でしたけど……、とグレイブは皮肉も忘れない。
「テナーの記憶は?」
ルクルの問いに、グレイブの視線がテナーに向く。彼の黒い双眸が、鮮やかな新緑の色に変化する。そうしてしばし、グレイブは気を失ったテナーを観察していた。やがて、彼の瞳の色が黒へと戻ると、そっと頷く。
「どうやら、消されずに済んだようです」
「やっぱり、効果はあったんだ!
はしゃぐルクルに、グレイブは問答無用で包帯をきつく締めあげた。ルクルの恨めしげな視線を前に、グレイブも負けじと睨み返す。
「命を落としていたかもしれないのです。少しは自重してください。今、あなたが崩れてはヴェルナンドの地を支えられなくなる」
「ふんっ、その辺は弁えているよ」
ルクルはそっぽを向くと、そそくさとグレイブに背を向けた。無防備に眠るテナーの寝顔を堪能するつもりらしい。彼女の顔を覗き込み、ルクルはもう甘くとろけた表情を浮かべていた。
これは、重症だな。
グレイブはもう、ルクルの行動を諫める気が失せてしまった。しかし、報告だけはしっかりせねばならない。
「昨夜、
「ああ、昨夜もテナーが氷漬けになっていたからね。それに反応したの?」
包帯を巻いたルクルの指先が、テナーの顔にかかる前髪をそっとかき分けた。
「ええ、そのようです。ただ……厄介な相手を依り代にされました」
「……ぼくの予想、当たったんだろう?」
「はい」
頷いたグレイブに、ルクルは口元に笑みを浮かべた。
「急にテナーに関心を示したから、おかしいとは思ったんだ。『夜月の王』は『銀月の乙女』にどうしようもなく惹かれてしまうから」
はるか古の神話の時代、朔風の歌い手が遺した数多の神々の物語。
中でも死を司る『銀月の乙女』と、崩壊を司る『夜月の王』の戦いは、輝かしい神々の時代に
現在、この地上で生きる人間も、霊獣も、今は神話の中でのみ語られる神々によって生み出された創造物の一つでしかない。神々の戦争の中でたまたま生き残ったから、こうして地上に文明を築いているに過ぎないのだ。
「それにしても……夜月の王は本当に死なないんだな」
「死を司る女神によって、全盛期の頃ほどの力も、神格も落ち込んでいますけれどね。それでも、死の概念をもともと持たない夜月の王が相手では、せいぜい力を削いで封じることくらいしかできなかったのでしょう。それだけでも、他の神々にはなし得なかった立派な功績ではありますが」
「だからと言って、テナーを銀月の女神に差し出すことは絶対にしないよ」
ルクルの断固とした物言いに、グレイブは何も言わなかった。
九年前から、散々議論してきた内容だ。今更、ルクルが考えを変えるとも思えない。それでも、グレイブはこう言わずにはいられない。
「ルクエス卿を立派な英雄として死なせてあげることの方が、私は彼女にとっても幸せだと思いますよ。夜月の王は、必ずや銀月の乙女を求めてやってきます。どのみち、かの男神からは逃れられないのです。ならば、銀月の女神からの祝福を最大限に生かし、選ばれた英雄として最後まで戦っていただいた方が、彼女にとっても名誉なことなのでは?」
「ぼくはそうは思わない。……少なくとも、学院で見た彼女は、そんなことを望んではいなかったから」
ルクルの指先が、そっとテナーの唇をなぞる。ルクルは眠るテナーの頭を抱えると、己の膝の上にそっと置いた。穏やかな彼女の寝顔を、ルクルは切なげに見下ろす。
「だって、聞いてしまったんだもの。彼女が学院を去るきっかけになった騒動を、ぼくは影ながら、この目で見てしまったから」
あの時は、建物の影に隠れて一部始終を眺めていることしかできなかった。
激しい怒りの感情に、泣き叫ぶテナーの表情を見た瞬間、ルクルは彼女の弱さを垣間見たのだ。
「……もう、ぼくはあの時の無力な子どもじゃないよ」
ルクルの碧眼が、そっと空を仰ぐ。彼の巻き毛が、吹き抜けた風にあおられた。薔薇園を吹き抜ける風が、芝生や薔薇を覆う霜を拭い去っていく。
「グレイブ、『奴』を見張れ」
「いつまで見張ればよろしいですか?」
ルクルの命令に、グレイブは期限を尋ねた。野放しにしていれば、害獣被害は拡大する一方だ。あまり時間はかけられない。
「奴がテナーに接触しようとしたら、ぼくに伝えろ。それか……他に目を移させるのも悪くはない。夜月の王としても、復活していきなり封じられるのも嫌だろうから」
「まさかっ……なりません! 万が一、『あれ』が奪われてはヴェルナンドの地は死の土地へと変わり果てます!」
「そうならないために、ぼくらが頑張るんだよ。銀月の乙女の力は絶対に借りない」
ルクルはテナーの頭を撫でながら、毅然とした面持ちでグレイブに言い放った。
「力がありながら、たった一人の女神に全てを背負わせて、見て見ぬふりをした神々とぼくらは違う。必ず、打開策を見つけてみせるさ」
彼の決意に、吹き抜けた風が薔薇の花弁を天高く散らした。