夏の
王宮内ではすでに衣替えを終え、夏服がしっくりと肌に馴染む頃だった。
白百合宮の中庭、その片隅で、ルクルはじっと茂みの奥を伺い見ている。
膝や衣服が汚れるのも構わず、真剣な表情で茂みの傍から動こうとしない。被った帽子の影で、ルクルの額から汗が流れ落ちた。
「殿下、お持ちいたしました」
駆け寄ってきたテナーが、柔らかいタオルを数枚、ルクルへ差し出す。
「ありがとう、ルクエス卿」
ルクルはテナーから柔らかいタオルを受け取ると、そっと茂みの奥へにじり寄る。芝生を踏みしめる音すら、大きく感じた。
そんなルクルの背を、テナーは固唾を飲んで見守る。
ルクルの細めた視線の先には、木の根元に掘られた穴があった。犬猫が丸まって横たわる程度の深さで、この穴を掘った親鳥はすでにどこかへ飛び去ってしまっている。
「さぁ、寒かっただろう」
ルクルは穴の中に置き去りにされた卵に向けて声をかけた。
一抱えほどもある卵はつるりとした表面をしており、全体的に薄茶色をしている。木の根元に掘った穴の中で孵化することを思えば、擬態色のつもりなのだろう。ルクルがそっと卵に触れると、まだほんのりと温かい。
「殿下、いかがでしょうか?」
「大丈夫。産み落とされてから、まだ間がない」
ルクルは穴からいったん卵を取り出して脇に置く。テナーに手渡されたタオルを穴の中に敷き詰め、残った二枚で卵を包むと巣穴に戻した。
「毎年のこととはいえ……ここに卵を産みつけていく霊鳥たちはぼくをベビーシッターか何かだと思っているのかな? 子孫を残すつもりなら、ちゃんと責任もって子育てしてほしいね」
茂みからのそのそと体を出すと、ルクルは眉根を寄せた。思わずため息がもれる。
「警戒心の強い
茂みから這い出してきたルクルに、テナーが笑いながら手を差し出した。
ルクルの表情が和らぐ。彼はテナーの手をしっかり握った。
「でも、おかげでルクエス卿にフルードルの雛を見せてあげられる。本当に可愛いんだよ」
立ち上がったルクルがテナーに笑いかける。
「ふふ、楽しみです」
ルクルの笑顔に、テナーは眩しそうに目を細めた。
「ふぅ……」
ルクルがシャツの首元を指先でつまむ。最近は朝でも気温が高い日が続いている。少し動いただけでじっとりと汗ばんだ。
「殿下、よろしければこちらをどうぞ」
テナーは手元に残してあったタオルを一枚、ルクルの前で広げる。
空気が、ひやりと凝った。
「ルクエス卿!」
「大丈夫ですよ」
慌てるルクルに、テナーはそっと凍らせたタオルでルクルの首元を包んだ。夏の強い日差しの中、テナーによって凍らせたタオルがひどく心地いい。
テナーの顔も、自然とルクルに近づく。やや伏せがちになったまつ毛の下で、金糸雀の羽色の双眸が揺れた。一度は外された金糸雀の胸飾りも、変わらず彼女の首元を彩っている。
そのことを意識する度に、ルクルは自分の頬が火照るのを感じた。誤魔化すように、ルクルはそっと両手でタオルに触れ、それを頬にすり寄せる。
「気持ちいい……」
「殿下のおかげで、今はうまく力を制御できております」
テナーは手のひらを掲げ、拳大の氷塊を生み出す。氷塊を見つめるテナーの双眸に、一週間前のような空虚さはない。彼女の強い意思を宿した双眸に、ルクルは目が逸らせなかった。
「まさか、霊獣の加護持ちとしての力が暴走していたとは思いませんでした」
呟いたテナーの表情が陰ったが、悲壮感はない。その証拠に、ルクルを振り向いたテナーは晴れやかな微笑を浮かべている。
「あの時、殿下が私を助けてくださらなければ、私は二度と目を覚ますことはなかったでしょう。ありがとうございます」
テナーの真っ直ぐな瞳に見つめられ、ルクルはグッと首にかけたタオルを両手で握りしめる。
これまでに、嘘をついたことは数えきれないほどある。けれど、テナーについた嘘はこれまでの嘘に比べると、ルクルの胸をひどく締め付けた。
けれど、本心を明かすことはできない。
テナーが絶望に沈めば、今度こそ、銀月の女神は彼女の心を支配してしまうだろう。
「ヴァネッサでは常に気を張ってなきゃいけなかっただろうからね。でも、今は王都の、それもぼくの白百合宮にいるんだ。だから、常に臨戦態勢でいなくたっていいだよ」
次の瞬間、ルクルはパッと明るい笑みを浮かべた。
テナーの手を取り、ルクルは彼女の手の甲に口付ける。そっと上目遣いでテナーの反応を窺った。
「殿下……私はあなた様の護衛騎士です」
少し困ったように、眦を下げる。
その切なげな表情と、僅かに朱に染まる頬がどうしようもなく愛らしい。
何より、彼女はルクルのふれあいを拒絶しなくなった。
護衛騎士として、人目のあるところでは相変わらず頑なにルクルと距離をとってしまうが、こうして二人きりで話している分には、ルクルのスキンシップにもある程度寛容だ。
テナーの手の甲に唇を寄せたまま、ルクルは唇を笑みの形に吊り上げる。
今は、このくらいにしておこう。
焦って距離を詰め、テナーに逃げられでもしたらそれこそ、この九年間が台無しだ。
「そうだ。今日、午後に来客がある」
「来客、ですか?」
ルクルがテナーの手を離す。テナーの表情が途端に「騎士」の顔になる。
「うん。仕立て屋を呼んだんだ。もうすぐ、叔父上の誕生日だから」
ルクルの言葉に、テナーは納得の声を上げた。
「近々、公爵様の屋敷でパーティーが行われる予定でございましたね。警護の件について、私も気になる箇所がございますので、後日公爵家の護衛の方とご相談してまいります」
「何を言ってるの?」
テナーとルクルは互いにきょとんっとした顔で見つめ合う。
「護衛騎士として、殿下の身辺警護を行うのですから、公爵家の警備の方と事前の打ち合わせをするのは当然です」
「君はぼくのパートナーとして招待された側なんだよ? 今日来る仕立て屋だって、君のドレスを誂えるためだ」
テナーが己の勤めを指摘し、ルクルがあっさり否定する。
「なっ、パートナー⁉ 私が、ですか⁉」
テナーは驚きのあまり、声が裏返った。
白百合宮へ来て早一か月、テナーはルクルの予想外な言動にはある程度慣れたと感じていたが、ルクルの思考は常にテナーの斜め上を容赦なく突き進んでくる。
「無理です! ダンスなど、今までロクに踊ってこなかったのですよ!?」
「まだヴァネッサに行く前に、ご令嬢たちに乞われて男性パートを踊っていたじゃない。基礎はしっかりしているってことでしょ?」
ルクルの指摘に、テナーは言葉に詰まった。
どうやら、日々の貴族令息の嫌がらせに対し、テナーがとった報復処置として嫌がらせしてくる令息の婚約者と踊り続けた過去の黒歴史を、ルクルに見られていたようだ。
ルクルはそれをとても肯定的に捉えてくれているようだが、当時を知る人間がいればパーティー会場にテナーが顔を見せるだけで大騒ぎになるだろう。
「それでも、やめた方がよろしいかと……。以前の私の過ちを思えば、殿下の評判にも傷をつけかねません」
恐らく、今度はルクルの婚約者の座を狙う令嬢たちを一斉に敵に回すことになる。
女性の嫉妬によって、身を滅ぼす騎士は多い。
「むしろ、これを機会にルクエス卿が変わったことを周囲に示すべきだよ」
テナーは苦い表情で、ルクルを見下ろす。ルクルも、テナーから視線を外すことはなかった。
「テナー、君は立派な淑女だよ」
ルクルがテナーの名を呼ぶ。
途端、テナーはルクルに握られた手から背筋にかけてやんわりとした痺れが走った。
頬を染め、ルクルから目を逸らす。
ルクルがテナーの名前を呼ぶときは、彼がテナーを「騎士」としてではなく「女性」として扱う時だ。
「その凛とした佇まいも、遠くを見据える瞳も、風になびく髪も……人々が君から目を離せないのは、君が美しいからだ。どうか、自信を持ってほしい」
「ですが……私の背丈では、殿下とともに踊るには支障があります」
ルクルの背はテナーの胸の辺りだ。ともに手を取り合って踊る様式では、きっとルクルの方がテナーに引っ張られる形になる。それでは、ルクルの体裁があまりに悪い。
「ふーん……つまり、ルクエス卿はぼくのダンスが下手だと言いたいのか」
スッとルクルの双眸が不穏な色を宿す。
「め、滅相もございません! 『社交界の華』と名高い殿下のダンスに、私めがついていけないだけでございます!」
テナーは慌てて、首を横に振った。
しかし、ルクルの機嫌は直らなかった。
「見くびってもらっちゃ困るよ。ぼくはどんな相手にも合わせることができる。まぁ、でもちょうどいいか。もうすでに叔父上には二人で参加するって返事を送っているし、ルクエス卿もヴァネッサにいた五年間はダンスをする暇もなかっただろう。これからぼくと練習しようか」
「で、殿下!」
ルクルに腕を引かれ、テナーは顔を青ざめたり、赤らめたりと大忙しだ。
早足で宮内へ入っていく二人の背を、庭に咲き誇った白百合が風に揺られながら見送っていた。