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第5話 或る自殺者の願い 其ノ弐

  その日の仕事もつつがなく終え、後は夕拝を残すのみとなった宵の口──私は二階の居室兼寝室にて、尺八の練習をしていました。


  練習に用いている曲は、イングランド民謡の"Greensleeves"……意外に思われるかもしれませんが、この曲のメロディは邦楽器との相性が良く、練習曲として用いる方が一定数いらっしゃるとのことです。


  尺八は音を出すだけなら教えてもらえば数分で出せるのですが、曲を奏でるとなると独特な息制御などを始めとした複数のテクニックが要求されるため、難易度が高いことで知られています。


  現に私が奏でるそれは、まだまだ下手で調子外れな、とても人に聞かせられるような出来には程遠い旋律です。白蛇さんに教えてもらいながら、少しずつ……けれども着実に前進しているというのが実情です。


  尤も──巫女の私は奏者ではなく旋律に合わせて舞うのが仕事ですので、実際に人前で披露することはないでしょうが。祭りの余興になるか、ならないか……と言ったところでしょう。


  因みに白蛇さんはというと、尺八はおろか神楽笛に太鼓、琵琶など基本的な邦楽器は全部極めているとの事で、暇を持て余した神さまの遊びというのは思いの外侮れぬものだと、不敬ながら感心したものです。三日ほど前、白蛇さんが尺八で"Greensleeves"の物悲しい旋律を奏でつつ、ポルターガイスト現象で琵琶を華麗に掻き鳴らす様を見た時は、感動を通り越して流石に恐怖を覚えましたが……。


  さて、何時もなら白蛇さんが練習開始と共に何処からともなくぬるりと姿を現し、マンツーマンで懇切丁寧に指導をして下さるのですが、今日に限っては中々姿を現しません。


「どうしたのかしら……?」


  白蛇さんに限って、日課を怠るなどということは有り得ないはず。もしかしたら、何か良くないことでも?


  そう不思議に思っていると、徐にシュー、シューという噴気音と、カタカタと小刻みに地面を叩く音が外の方から聞こえてきました。


  アオダイショウの威嚇行動時に発せられる音に似たそれは、私のよく知っているものでした。白蛇さんが、怒りや不快感を露わにする際に発する音です。


  音は十数秒ほど、断続的に聞こえてきましたが、やがてピタッと止まり、代わりに何者かが不気味に蠢く音が、一階から聞こえてきました。


  衣擦れの鋭い響きに混じり、白足袋に包まれた足から発せられるひたひたというくぐもった足音が、一階の廊下、階段、そして二階の廊下と徐々に近付いてきます。


  衣擦れの音と足音は、私のいる居室の前で止まりました。ごくりと息を呑み身構えますが、入ってくる様子はありません。


  その時でした──


「──背後への警戒が、疎かになっていますよ?」


  耳元で突然、冷たい声でそう囁かれ、飛び上がらんばかりにびっくりしつつ後ろへと振り返ると、無表情の白蛇さんが軽く片手を挙げてひらひらと、私に向けて振っているのが見えました。


  そこで私は、白蛇さんが巫女装束の上から、戦国期のお姫さまのように打掛を羽織っているのを思い出しました。背中側に龍神の描かれた、真っ白な打掛を。そして足には白足袋を履いています。小さく可愛らしい足にピッタリとしたサイズのものを。


  衣擦れの音と独特な足音の正体はなるほどそれかと一人納得する私に対し、白蛇さんは淡々と告げます。


「──貴女にお会いして話がしたいというお客様がいらっしゃいましたよ、奏。鳥居の前でお待ちしております。お務め終わりでお疲れのところ申し訳ありませんが、対応を宜しくお願いします」


「私に……お客様ですか?」


  友人らしい友人も、知り合いらしい知り合いも生きている方にはいないのに、と私が言うと白蛇さんは少しだけ私を憐れむようにすっと目を細めました。


「──死者ですよ、奏。貴女がそれと知らず、うっかり交流を試みてしまった」


  そう言われて私の脳裏を過ぎったのは、宮守の仕事を始めてから毎朝顔を合わせる、件の男の人でした。やつれた顔で愛想笑いを浮かべ、此方が挨拶をすると軽く会釈をして去ってゆく不思議な男の人。


  なるほど、あの人は死者だったのか。そう思ったのが顔に出ていたのか、白蛇さんの表情が俄に険しくなりました。


「全く──生者と死者の見分けもつかないようでは、この先長生きすることなど出来ませんよ? 早死にしたいのなら兎も角、少しでも長生きしたいのなら、安易な気持ちで彼等とは関わらないことです。此岸の者たちとは住む領域、理が根本的に異なるのですから」


「も、申し訳御座いません……」


  返す言葉もありませんでした。白蛇さんから頂いた、木彫りの御守り……それを常に身に帯びているとはいえ、完全に霊障を防ぐことは出来ません。あくまでそれは、霊障により生じる身体への負荷を若干緩和してくれるだけ……霊障による影響を受け続ければ当然、それだけ命は削れてゆきます。白蛇さんは、それを危惧なさっていらっしゃいました。


  それに……私としても、少しでも長く白蛇さんと一緒にいたいという気持ちは強く抱いていましたから。


  白蛇さんも、流石に強く言い過ぎたと思ったのでしょうか、少し表情を和らげながら私をぎゅっと抱きしめると、やや舌足らずな声で優しく私に声を掛けてくれました。


「とはいえ……相手は自殺者。それも自らの首を縊って命を絶った男ですから、よくよく観察しなければ生者と見分けることが難しいのもまた事実。貴女一人を責めるのは、酷というものなのかもしれません。貴女とて、自ら望んで彼岸に半身を浸したわけではないでしょうから」


  白蛇さんが言葉を紡ぐ度、お香のような心地よい匂いが漂い、乱れていた私の気持ちを落ち着かせてくれます。


「……宜しいですか、奏? 鳥居が、外界との境界の役割を果たしてくれます。鳥居越しならば、たとえ死者と意思の疎通を行ったとしても、霊障の影響をそこまで強く受けることはないでしょう。だから──」


  そこで一旦白蛇さんは言葉を止めると、私の両頬に手を添え、緋色の瞳で私をじっと見据えながら、澄んだ声で告げました。


「──だから、お行きなさい、奏。相手はきっと何かを、貴女に訴えようとしている。切なる願いを秘めて。そのために、この世ならざる者が決して入ることの許されない我が神域の目の前まで、わざわざ足を運んできたのです。その思いを無下にすることなど出来ません」


「──白蛇、さん……」


「私には出来ませんが、貴女になら出来ます──奏。死者の声に耳を傾け、その願いを聞くことが。彼等に寄り添うことが。だから、お行きなさい。そして彼の願いを、聞いておあげなさい。そうすれば、何かしらの解決の糸口を、見つけ出すことも出来ましょう」


  私を見てくすっと笑う白蛇さん──私なら必ず、死者の訴えや切なる願いを聞くことが出来る。そう信じて疑わない、真っ直ぐな眼差し。それを裏切ることなど、私には出来ませんでした。


「分かりました──この身で何処までこの世ならざる者に寄り添えるのか、皆目見当もつきませんが……私に出来うる限りの、文字通りの最善を尽くしてみせます」


  私は小さく──それでいて力強く頷いてみせると流れるように草履を履き、件の男の人の──自死という形でその生涯に幕を閉じた死者の待つ鳥居へと足早に向かいました。



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