静まり返った境内にチャリ、チャリと私が小砂利を踏みしめながら早足で歩を進める音のみが響きます。
夜は社の近辺に街灯が殆どないこともあってか、人の気配は全くと言って良いほどありません。稀に、車の駆け抜けてゆく音のみが聞こえてくる程度です。
鳥居の前──月明かりにぼんやりと照らされながら、一人の男の人が立っているのが見えます。私が宮守となってから、毎朝顔を合わせた人。白蛇さん曰く、首を縊って自ら命を絶った人。
見ている限りでは、とてもそうは思えませんでした。首が有り得ない角度に捻じ曲がっているでも、ズボンの股の辺りが糞尿で汚れているわけでもなく、ただ異様に顔色が悪いだけの、少し目を凝らせば何処にでも居そうな普通の人でしたから。
「──お待たせしてしまい、申し訳御座いません。私、この神社の宮守をしております、早瀬奏と申します」
上がり気味の息を整えつつ、目一杯の笑顔を浮かべながら、私は姿勢を正して軽く一礼します。白蛇さんの言いつけ通り、鳥居の外には出ないよう心掛けながら。
それに対し、相手は愛想笑いを浮かべながら、
「これはご丁寧にどうもどうも……成程、地主さまのお家のご令嬢でいらっしゃいましたか。噂には聞いておりましたが、まるで天女のような美しさじゃ」
「あ、あの……?」
「あ、こりゃあいけねぇ。私、地主さまの下で小作農として働いております久作と言うものでさぁ」
何が何だか分からず困惑する私を他所に、久作と名乗った男の人は頭を搔きながらぺこりと一礼しました。
「いやぁ、宮守さまが地主さまとご縁が深いというのであれば話は早い。私めの訴えを、どうか聞き届けて頂けやしないでしょうか」
「え、えっと待って下さい。確かに私の家系は代々、地主として此岸町の土地の大半を取り仕切っていましたが……」
久作さんの仰る通り、早瀬家は地主をしていました。ですが今の時代に、地主も小作農も存在しません。先の大戦でアメリカに敗れ、農地改革の一環として地主制は廃止されたからです。
しかしながら、久作さんは自らをはっきりと小作農と仰いました。彼は一体、何時の時代を生きた人なのでしょう。
私は一先ず、久作さんに今が何年なのかを尋ねてみることにしました。
「久作さん、今が何年かご存知ですか?」
すると、久作さんの口から予想外の返答が返ってきました。
「随分と、おかしなことをお聞きなさる。今は大正十年でさぁ」
「大、正……」
大正十年。西暦に直すと1921年。百年以上も昔の人。成程、それならば小作農と名乗ったのも頷けます。
「宮守さま……?」
「い、いえ……何でもありません。それで久作さん、貴方は何か、私に訴えたいことがおありだと仰っていましたが──」
今が令和の世だと言っても久作さんを混乱させるだけだと判断した私は、これ以上の寄り道をせず彼の訴えを単刀直入に聞くことにします。
そんな私の思惑が、まさか裏目に出ることとなろうとは──
「そう! それです! そのために来たんですが、何故か鳥居を潜ろうとするとおっかない化け物が出てきて、牙を剥き出しにしながら私を襲おうとするんでさぁ!!」
本題に入るどころか、またしても話が逸れてしまいました。中々どうして、思い通りに事は進まないものです。
「化け物、ですか……? 社の中は神聖な領域ですから、幽霊や物の怪の類は入って来られない筈ですが」
「いや! 見た! 見たんでさぁ! 恐ろしく巨大で長い白い蛇みたいな化け物を! 頭に鬼みてぇな角を生やし、
多分、白蛇さんのことでしょう。先程まで威嚇音が聞こえていましたし。
御祭神である白蛇さんは、自分の領域に死者や怪異が入ろうとするのを嫌います。鳥居が境界の役割を果たしていても。恐らく己が聖域を守らんと、久作さんに対して防衛行動を取ったのでしょう。
それにしても、本題を聞こうとすると話が逸れてしまうのは、何故なのでしょう。久作さんが、生来お喋りが大好きな方だった可能性もありますが……私に聞く力がないのではないかと、些か不安になってしまいます。
「大丈夫です。怖い見た目でも、悪い神さまではありませんから……多分」
「多分!?」
「まぁまぁ……その話は、一旦置いておいて。聞き届けて欲しい訴えというのは、一体何でしょう。何か、困ったことでもおありなのですか?」
白蛇さんのことをはぐらかしつつ、私が小首を傾げながら尋ねると、久作さんは急に俯いてしまいました。
話しづらい内容なのでしょうか。心做しか震えているようにも見えます。
やがて──
「……ちょいとばかり長くなるかもしれませんが、どうか私めの話を聞いて下さいや」
私がこくりと頷くのを確認すると、何度か大きく深呼吸をし、意を決したように久作さんはポツリポツリと話し始めました。
「……私にゃあ、妻と娘が居ましてね。私めには勿体ないくらい器量よしな妻と、目に入れても痛くないくらい可愛い娘が」
久作さん曰く、地主さま──つまり私のご先祖さまの紹介で結婚した女性だそうで、決して裕福とは言えないながらも慎ましく幸せに暮らしていたとのことです。可愛い娘さんも生まれ、正しく人生の幸せの絶頂にいる中、それは音もなくやってきたと言います。
「あれは、大正十年の冬のことだった。世間で何やらタチの悪い
久作さんは地主さまの言葉に従い、不要不急の外出を控え、奥さんと娘さんにも可能な限り外には出ないよう注意することを心掛けていました。
「私ぁ、地主さまの言いつけを守っていたんですよ。妻にも娘にも窮屈な思いをさせるだろうが、それで流行性感冒に罹らずに済むなら、と。でも、でもね──」
突如として襲来した、謎に満ちた悪性の流行性感冒……その伝染力と毒性たるや凄まじく、久作さんの奥さんと娘さんが感染、そして発症してしまったのです。
この流行性感冒──今でこそスペイン風邪の呼び名で知られる、遺伝子変異したインフルエンザウィルスの一種だったわけですが、久作さんが生きていた大正時代当時は未知の感染症であり、医療技術も当然ではありますが今ほど発展しておりませんでしたので、発症すればほぼ為す術はありませんでした。
罹ったなら最後、自然治癒するか、重症化して死ぬかの二択。そして、久作さんの奥さんと娘さんの場合は、無情にも後者でした。
久作さんが医者を呼びに駆け回っている間に、奥さんと娘さんの病状は次第に悪化してゆき……やっとの思いで医者を連れてきた時には、もう二人とも息をしていなかったと言います。
「妻と娘が死んだ……私ぁ、目の前が真っ暗になったような気がしました。何も悪いことをしていないのに。真っ当な暮らしをしてきたはずなのに。神さまは何て、斯様な残酷なことをなさるのか、ってね……」
それから先の記憶が、久作さんはないとのことです。気が付いたら誰も居ない、それでいて知らない街並みへと変貌した此岸町に一人、ポツンと佇んでいた、と。
恐らく、久作さんは夢遊病のような状態でぼんやりと、突発的に後追い自殺をしたのでしょう。最愛の奥さんと娘さんに会いたいがために。また、一緒になりたいがために。
ですが、自殺者はその土地に縛られてしまいます。それ故に、久作さんは悲願が成就することの叶わぬまま、今日まで一人此岸町を彷徨い続けていたのです。
死者は原則として、自分以外の存在を認識出来ません。傍から見れば至る所で跳梁跋扈しているように見えても、死者は基本的に皆一人ぼっちなのです。
私のような、此岸に居るのか彼岸に居るのかよく分からない曖昧な存在は、彼等が認識出来る数少ない例外的存在でした。
実際、久作さんは私以外の人間に会っていないと言います。私以外にも、生者も死者も怪異も、沢山この町に居るはずなのに。
久作さんの目に見えたのは私と、白い蛇のようなおっかない化け物──白蛇さんだけだったのです。それ以外の存在を、認識出来ていないのです。
「……薄々、馬鹿なりに分かってはいたんでさぁ。宮守さま──私ぁ多分、とっくの昔にこの世の者じゃあなくなってる。でも、でもね──」
両目から大粒の涙を零しながら、縋るような目で久作さんは切なる願いを口にしました。
「──もう一度……もう一度だけで良い。最愛の妻と娘に逢いたい。そして、不甲斐ない夫で、父親でごめんなと言いたい。私の願いはただ……それだけなんでさぁ」
「久作、さん……」
「頼みます、宮守さま……どうか、どうか私めの訴えを──」
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにし、滂沱に次ぐ滂沱を繰り返しながら、久作さんはすうっと姿を消しました。
その場に一人残された私はただ、久作さんへの同情と憐憫から胸に手を当て、溢れそうな涙を堪えるべく唇を噛み締め、目を閉じることしか出来ませんでした。