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第十九話 抗う者

 無謀な行い。


 それは、アーシエフにもわかっているのだろう。

 バーバクでも敗れた独角族ハーシャレフに、アーシエフが勝てるとは思えない。

 しかも、すでに戦線は崩壊している。

 退路すら絶たれ、孤立する危険性が極めて高い。


 それでも、バーバクの魂を奪われたくなかった。

 その気持ちは、ザーミーンには痛いほどよくわかる。

 父エスファンディアルの魂は、戦場で喪われた。

 女神のもとには還っていない。

 おそらく、双角神クァーニアンに奪われたのだ。


 今でもそれを思い出すと、悔恨の念が強くなる。

 あのとき、自分がもっと強ければ。

 あの敵陣を、突破できていれば。

 戦場に、むざむざ父遺骸を置き去りにする結果にはならなかったのではないか。


「アーシエフ! お願い、戻って!」


 キミヤーが、懸命に訴える。

 牝獅子はぎりっと歯を噛みしめると、何かをこらえるように顔を歪め──。

 振り返らず、さらに前に出た。


 ザーミーンが後ろを振り向くと、キミヤーは何かを言おうとして、三度口を閉ざした。

 果断な彼女にしては、珍しい行動である。

 だが、決意とともに顔を上げたとき、キミヤーはもう迷わなかった。


「ティグヘフ、オミード、撤退よ! べバールと合流するわ!」


 アーシエフは、助けられない。

 キミヤーの判断は正しい。

 このままでは、ティグヘフたちも失うことになる。

 撤退して態勢を立て直し、マージアールやべバールと一緒に反撃する。

 それが、いま取れる最適な行動。


 だが、それはできない。

 なぜなら、ザーミーンにはアーシエフの気持ちがわかってしまうから。

 捨てられないものが、そこにまだあるから。


「──ごめんなさい、うちも、行きます」


 ぺこりと、頭を下げる。

 ごめんなさい、それは、奇しくもアーシエフと同じ言葉。

 キミヤーの決断も、そうしなければならない状況もわかっているのだ。

 でも、頭ではわかっていても、心が肯んじてくれない。

 ザーミーンは前傾姿勢を取ると、大地を蹴って飛び出す。


「ザーミーン!」


 背中にキミヤーの悲鳴が突き刺さる。

 あの人にも心がある。

 だから、ためらった。

 三度も、撤退命令を出せなかった。

 それでも苦渋の思いで出した命令を、こうして無視してしまった。

 ごめんなさいと、何度も心の中で謝罪する。


 それでも。


 ここでアーシエフを見捨てたら、もうザーミーンは自分が許せない。

 自分が自分であるために。

 これは、ザーミーンのわがまま。

 だから、キミヤーには謝るしかない。


 崩れる傭兵たちを追撃してきた蟲人たちが、駆け出すザーミーンの前に立ち塞がる。

 だいぶ数も減ったが、それでもまだ数十人はいるだろう。

 全部をいちいち相手にするのは、ザーミーンでも難しい。


「うちの道を開けろ──Aaaahhhhhhhhh!」


 ザーミーンの声帯から、人間のものとは思えぬ音量の咆哮が轟く。

 竜の咆哮ガルシュ・アジダハーヤ

 ザーミーンの感情がそのまま乗ったような叫び。

 振動で、壁面を走る赤い筋が激しく明滅する。

 それは、女神の魔力に双角神の魔力が抵抗しているのだろう。

 殺到する蟲人たちも、衝撃とともに後ろに吹き飛び、へたり込んだ。


 中央に空いた通路を、ザーミーンは風のように駆け抜ける。

 強大な魔力を持ったニザールには、咆哮もあまり効果がない。

 先にたどり着いたアーシエフと、撃ち合いがすでに始まっている。

 彼女も相当な使い手ではあるが、体格で勝る独角族には膂力で敵わない。

 互角とは言えず、撃ち負けて少しずつ後退させられている。


「おい嬢ちゃん、ちょっと無茶しすぎじゃないか」


 影のように、ティグヘフがザーミーンの隣で並走していた。

 逆側には、オミードの姿がある。

 妨害する蟲人が倒れた隙に、移動してきたようだ。


「お嬢は怒らせると怖いぞ。罰は、覚悟しておくんだな」


 そう言いつつ、ティグヘフは止めなかった。

 仕方ねえ、おれも一緒に受けてやるよと笑う。

 いつもの皮肉な笑いではない。

 温かい笑顔だった。


「ティグヘフと行動すると、いつもろくなことにならない……」


 オミードのぼやきにも、深刻さはない。

 彼らは、平気で命を賭けられる人種なのだ。

 恐怖と友人付き合いをしてこないと、この状況で軽口は叩けない。


 衝撃から、蟲人たちが立ち直りつつある。

 起き上がる兵を蹴倒し、ティグヘフが首を刎ねる。


「行けよ、嬢ちゃん。後ろは気にするな。おれたちが食い止める」


 追ってくる蟲人を相手に、オミードの剣が舞う。

 阿吽の呼吸で戦う二人の若者に、ザーミーンはにこりと笑った。


「ありがとう、行きますけん!」


 ザーミーンの右手が振られる。

 五本の魔力の爪が群がる蟲人を切り裂き、その衝撃が大地を走る。


 それを、ティグヘフは眩しそうに見送った。


「ありがとう、だとさ」

「素直に礼が言えるなんて、いい子じゃないか」

「あんな笑顔向けられると、こっちまで浄化されちまいそうだぜ」

「されろされろ。おまえみたいな邪なやつは、ちっとはきれいになった方がいいんだ」


 多勢に無勢にもかかわらず、ティグヘフとオミードの連携に隙はなかった。

 お互いの攻撃でできた隙を、相方がうまく補って死角を作らない。

 減らず口を叩きながら、二人は蟲人の攻撃を食い止める。


 ザーミーンは、もう振り返らなかった。

 あの二人は、覚悟を持って戦う人たちだ。

 かつて、父とともに戦場を駆けた聖衛隊の面々もそうだった。

 彼らは、エスファンディアルとともに死ねるなら、どんな状況でも笑って行っただろう。

 何者にも屈することなく、危地にあっても笑顔を絶やさない。

 最高の男たちだ。

 だから、振り向きはしない。

 後ろは、任せたのだ。


 ザーミーンの視線は、前へと向けられる。

 アーシエフまでは、もう少し。

 間断なく乱れ飛ぶ斧の攻撃を、アーシエフはなんとか耐え凌いでいた。

 少しずつ、傷が増えている。

 だが、アーシエフの目はまだ死んでいない。

 そんな粘るアーシエフに業を煮やしたか。

 ニザールが、飛び上がった。


 跳躍からの回転。

 それは、バーバクを倒した一撃。

 独角族の恐るべき膂力に回転を加えた斧が、異なる角度からふたつ襲ってくる。

 手練れの戦士でも両断される攻撃はまさに必殺。


 アーシエフでは止められない。

 次の瞬間、彼女は夫の後を追い、真っ二つになって終わる。

 そんな未来は、許せない。

 そうさせないために、駆けてきた。

 だから、ザーミーンもまた跳躍する。


聖刀シャムシール・モゴダスハーファザート!」


 ザーミーンは武器を持たない。

 その掌には、神の爪が宿っているから。

 ザーミーンは鎧を着ない。

 その身体は、神の鱗で護られているから。


 だが、それは決して武器を使わないということではない。

 彼女は右手に指環を嵌めている。

 それは、シャーヒーンが持つ騎士の指環と同じ。

 神の武器を呼び出す聖なる指環。


 そしていま、守護者の名を冠した刀が顕現する。



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