嘘でしょ、と思った。というのも。
「どわあああああああああああああああああああああああああああああああああっ!?」
つるっ、と足が幹から滑り。思い切り尻もちをつく羽目になったかりである。どっしゃぁぁん!となかなか盛大な音がした。セリーナは涙目になりながら、お尻をさする羽目になる。
「あたたたたたたっ!な、何よこの木!?」
よく見たら、幹の表面がつるつるの皮で覆われている。その上で、幹の角度はほぼ垂直に近い。一番近い枝はかなり高いところにあるし、これで一体どうやって登ればいいというのか。
「あ、あの、お嬢様……」
ダーシーが恐る恐るといった様子で声をかけてくる。
「ふ、フレイルピーチの木は……サルや猫といった動物が登りにくいことでも知られてるんです。むしろ、登られては困るので、木の表面がつるつるに進化したとされていて。と、鳥だと樹の実を食べても種が消化されないで糞になって落ちるからいいけど、サルとかは相性が悪くて種まで消化されちゃうからだって言われてて……」
「うるさいわね、そんなことどうでもいいでしょ!」
「ひっ」
反射的に怒鳴ると、お下げの少女は小さく悲鳴を上げて縮こまった。何よ、とセリーナは思う。ちょっと大きな声を出しただけでその態度は腹立たしい。まるで自分が虐めてるみたいじゃないか。
――ムカつくわ。あんな下民のメイドが、私の知らないことを知ってるとか!
確かに、彼女には何度もフレイルピーチの実を収穫させているし、この手のことに詳しいのは普通のことかもしれなかったが。
――私は下民の手なんか借りるわけにはいかないのよ!お姉様に馬鹿にされるわけにはいかないんだから……!
相変わらず、窓の向こうからブリトニーの視線を感じる。セリーナが自分のせいですっ転んだこともまったく気にしていない様子でニコニコしている。どいつもこいつも、とセリーナは腰をさすりながら立ち上がった。
――あのドジっ子なダーシーが登れるくらいなんだもの。私が登れないはずがないわ!
とりあえず、木の幹をよく観察してみる。皮はつるつるしているが、どこかに登るとっかかりがあるはずだった。足をかけられるウロがあるとか、表面に出っ張っているところがあるとか。
あるいは梯子を使っているなんて可能性もあるのだろうか。いや、何度もダーシーをパシらせたが、彼女が倉庫に寄って梯子を使っているような様子はなかったような。
――どこかに、捕まるところでもある?あるいは、ジャンプして枝を掴むとか?……いや、ダーシーは私より小柄だしグズなんだから、私より高く飛べるなんてことはないわよね。
中央部分に凸凹はあったが、足をかけようとしてもつるつるして滑ってしまう。一番高い枝にも、まったく手が届かなかった。何か道具が必要なのか?でも、鬱蒼と繁った葉を掻い潜り、高枝鋏で実を一つだけ落とすなんてことできるだろうか。他の実や葉も傷つけてしまいそうだ。
どうしたものか。
あっという間に、セリーナは手詰まりになってしまう。諦めて梯子や高枝鋏を持ってきて試すか、魔法で撃ち落とせるかやってみるしかないだろうか。どちらも確実にダーシーが取ってない手段である。それをやったら最後、姉以前にダーシーに負けたような気がして腹が立つ。
それに、フレイルピーチはかなり高級な木の実としても知られている。傷つけてしまった場合の損害が大きく、できれば幹を傷ませるようなことも避けたいわけで――。
「お嬢様」
口を開いたのは、執事のマイルズだった。
「どうすればいいのか、まったくわからないのではありませんか?」
「う、煩いわね!黙ってなさいよ!」
「雇い主を相手に、わたくしのような下々の者が説教をするような真似、本来許されますまい。ですのでこれは……独り言だとでも思って下されば」
老齢の執事は、立派な口髭を撫でながら言う。
「分からない事を分からないと認める勇気も時には必要です。誰かにアドバイスを求めるのは恥ずかしいことではございません……少なくとも、取り返しがつかない失敗をしてしまうよりは、余程」
「!」
「お嬢様、そろそろ魔法で木の実を撃ち落とすべきか、高枝鋏でも使うべきかと迷っておいでなのでは?それをやったら最後、最高級のフレイルピーチの木に致命的な傷を与えてしまう可能性が高いかと存じますが」
「うっ……」
まさしく図星。セリーナは言葉に詰まるしかない。
このフレイルピーチの木は、五代くらい前から存在し、この家で大事に大事に育ててきたものだと知っている。拳大の木の実ひとつ、時価にして三十万Gくらいの価値があることも知っている。本当に家が困窮した時は、このフレイルピーチの実や葉、種を売って凌いだこともあるというエピソードも聞いたことがあるほどだ。
つまり、イーガン家にとっては恩人にも近い存在なのである。
それを派手に損壊したともなれば、父上にどれだけ厳しく叱責されるかわかったものではない。
――あ、アドバイスを求めろっていうの!?この私が、執事やメイドごときの連中にっ!?
愕然とする他ない。
セリーナにとって、この家に使える召使いどもはみんな、換えのきく奴隷も同然の存在だった。中流階級から労働者階級の連中ばかり。ようは、誰も彼も貴族ではないのである。魔法族以前の問題だ。貴族ではない奴らなんか人間でもなんでもないとセリーナは考えてきたし、これは貴族としては珍しくもなんともない考え方だろう。下民が住んでいる街を通らなければならなくなってすごく嫌だった、路地が臭かった、転がっているのがゴミだか人だかわからなくて全部火炎放射器で焼いてやりたくなった、なんて。そんな冗談が、大学でも普通に飛び交う。珍しいことでもなんでもないのだ。
無論、この家に支えるからには最低限の身なりは必要。メイドも執事も、浮浪者や娼婦がうろついているような町の奴らと違って毎日風呂に入っているし、それなりに綺麗な服も与えてやっている。清潔感という意味では、連中より遥かにマシであるのは間違いのが――。
「そ、その……」
やがて、怯えたような声でダーシーが言った。
「怪我をしたら、痛い、ですよ。お嬢様も、フレイルピーチの木も」
「……植物が喋るわけないでしょ。何言ってんのよ」
「喋らなくても、想像することはできます。この木は、何百年と……イーガン家を見守ってきて下さったんです。心が宿っていても、おかしくないと思います」
それに、と彼女は続ける。
「木を傷つけたら……お嬢様もきっと折檻されます。鞭でぶたれるのは、本当に……痛いですよ」
「…………」
少女が自分を守るように、右手で左手首を掴むのが見えた。実のところ、セリーナもダーシーを折檻したことがある。自分の失敗を棚に上げて言い訳ばかりするからブチ切れたのだ。兄に見つかって「やりすぎだ」と叱られたからそこで終わりにしたが――なんにせよ、ドジで間抜けな彼女は殴られる痛みもよく知っているのだろう。
流石に、あれを自分で受けるのは嫌すぎる。美しいこの肌に傷がつくなんて冗談じゃない。セリーナは舌打ちをして――仕方なく、マイルズの方に視線を向けた。
愚図なダーシーにだけは助けを求めてなるものが。最後の意地のつもりだった。
「……アドバイスとやらがあるなら、言いなさいよ。どうすればいいっての?」
むすっとした言い方になってしまったのは否定しない。それでも、こっちは貴族で向こうは雇われの召使いなのだ。理不尽に思うのは当然のことではないか。
「人にものを尋ねる時は、もう少しそれらしい言い方をなさるのをお勧めしますよ、次からは」
呆れたような物言いのマイルズに苛々する。まったく、彼まで姉と同じことを言うだなんて!
***
結論を言えば。
そもそも、セリーナは装備からして間違っていたということらしい。武術用のブーツではなく、滑り止めとスパイクがついた登山用の靴を使わなければいけなかったようだ。
靴を履き替えることで、小さな凸凹に足をかけて登ることもできるようになった。しかし、問題はそれだけではない。どの木の枝なら乗っても安全か、どの木の実と葉を切るのが正解か、きちんと見極めて作業をしなければならないという。
満遍なくピンク色に染まっている実は熟れすぎていて逆に美味しくないとか。
枝の根本が赤茶に染まっている場合は、養分を吸われすぎて脆くなっているので乗ってはいけないとか。
葉は半分が赤く染まっているものを落とすのがいい、とか。
実を収穫する時は虫食いの形跡がないかを確認しなければいけないとか。特に、今のような春の時期ともなくるモモノキバチが実の中に巣を作っていることがあり、万が一その実を取ってしまうと襲われて大変なことになるから注意が必要だとか。
正直、気をつけなければならないことや、手間がこれほどかかるだなんて思ってもみなかったことだった。結局セリーナが木の実を一つ選別して収穫し、葉を数枚落としてブリトニーのところに戻ってくるまで――何時間もかかってしまったのである。
せっかくの休日が、半日近く潰れてしまう結果になったのだ。
「うーん、美味しい!」
そして姉は。今、目の前で夕食前の紅茶を楽しんでいるところである。セリーナが悪戦苦闘したあの木を窓越しに眺めながら。
「セリーナも、やればできるじゃないですか。私は、貴女がマイルズさんたちにアドバイスを求めるのを嫌がって結局泣いて帰ってくるか、失敗して木を傷つけてお父様にお尻ペンペンされる可能性の方が高いかと思ってたんだけど」
「お姉様、私のこと馬鹿にしてる!?」
「馬鹿にしてます。というか、馬鹿にしていたという方が正しいかしら」
あっさりと言ってくれる姉に、絶句するセリーナ。ここまで人に労力をかけておいて、と文句を言いかけたが――姉が言いたいのはそこではなかったらしい。
「セリーナは、執事さんメイドさんたちを馬鹿にして、ずっと虐めてきたでしょう?そういう行為を、私はずっと軽蔑していました。何度私が言っても治らないんだもの。でも、これで少しはわかったでしょう?……私達が飲むこの紅茶一杯入れるだけで、どれほどの苦労があるか。私達が、あの方々に支えられているか」
かちゃん、とカップをソーサーに置いて。姉は真剣な眼差しで、セリーナを見つめたのだった。
「人を馬鹿にしてばかりの人間は、誰からも対等に見てもらえなくなるものです。これからは、あの方々も……私達家族のことも。きちんと目線を合わせて接することですね。対価や愛情を、得たいと思うのならば」
「……何よ」
わからない。セリーナは、膝の上で拳を握りしめる。
「何でそんなこと、言われなきゃいけないのよ……」
確かに、想像以上に大変だった。それを理解したのは事実だ、でも。
だからって、それだけで召使いたちを尊敬するなんて、そんなことできるはずがない。長年培った価値観はそう簡単に覆せないのだから。
唇を噛みしめるセリーナを、暫くブリトニーは黙って見つめていたのだった。