あんなに流暢に自分の意見を話すトレイシーは、初めて見たかもしれない。好きなことだと、人はここまで変わるのかと思った。あまり表情の変化がわかりづらい、というか殆ど笑ったところを見たことがないようなトレイシーが、僅かに口元を緩めているように感じたからよっぽどだろう。
魔女と魔法使いの起源。
確かに、少しだけ面白そうな題材だと思ってしまった。本来、ゼミへの所属は来年になってからでも問題はない。にも拘らず、二年生の今からトレイシーがゼミに所属して伯父の元で研究したいと思ったのは、一刻も早くその題材について学びたかったからなのだろう。
「俺は将来、お前の伯父さんのような魔法考古学の研究者になりたい。最近、特に強くそう思うようになった」
むしろ意外なのはお前だ、と少しだけ目を丸くしてトレイシーは言う。
「お前は、美術と海外旅行にしか興味がないとばかり思っていた。将来、魔法に関わる仕事をしたいと考えているわけではないと。どういう風の吹き回しだ?」
少しだけ、セリーナも驚いたのである。確かに、自分が興味あるのは絵を描くことと海外へ旅行することだ。将来は絵描きになって、世界中の景色や文化を描いてみたいというのがセリーナの夢だった。残念ながら親の意向もあって、美術系の大学や専門学校に進むことはできなかったものの、なんなら卒業後に専門学校に入り直すこともできるのである。今も、美術部で絵を勉強している真っ最中だ。
が、トレイシーがセリーナのそういう事情を知っているとは思っても見なかった。彼は、自分のことが嫌いで、まったく興味など持っていないとばかり思っていたからである。
「……別に。貴方が、二年生の時からゼミに入って……お姉様のところで研究の手伝いをしているというから。そんなにも、魔法考古学って面白いのかしらと思っただけよ」
本当のことなど言えるはずがない。
トレイシーに惚れさせて、復讐するつもりでいるから――なんてことは。
「何で魔法考古学に……魔女の歴史に興味を持ったの?私達魔法使いの一族の発祥に疑問を持つようなきっかけでもあったわけ?」
もうすぐ先生が来る時間だ。授業が始まったら会話を続けることはできなくなる。教室に人も増えてきた。
それでも、最後にこれだけは尋ねておきたかったのである。
「それに、あんたは継承会議で……継承者に選ばれる気はないの?磔刑の魔女の称号を受け継いだら、うちのお父様のように新しい魔法の研究と発展に尽くさなければならなくなると思うんだけど?」
「魔法の研究も面白そうではあるが、俺は歴史の方が面白いと思っている」
セリーナの言葉に、トレイシーはあっさり言った。
「どうしてもと選ばれたらその地位に着くのもやぶさかではないが、俺自身は跡継ぎになるべきだとは思っていないし、自分にその素質があるとも考えていない。魔女の称号に相応しい人間は、他にもいるからな」
「え」
――ちょっとそれ、どういうこと?
今はまだ、四月。来年の三月に行われる継承会議までは、約一年の時間がある。つまり、その間にトレイシーの考えが変わる可能性がないわけではないのだが。
――あんたは最終的に自分が継承者になって、私を追い出すんでしょ?……そのための根回しを、あんたがやったんじゃないの?
この時点で、トレイシーが磔刑の魔女の座に興味がないというのか?
そんなことがあるというのか?
「……私と同じくらい、魔力が高くて魔法の成績が良いじゃない、あんた。それなのに、跡継ぎに興味がないっていうの?」
セリーナが皮肉交じりに言うと、トレイシーはああ、と頷いてみせた。
「魔法使いの一族をまとめる仕事だ。そういうのは、ただ魔力が高いだけの人間に務まるものじゃない。俺もお前も向いてはいないだろう」
しれっとセリーナが巻き込まれたのは腹立たしいが。それはそれとして、困惑するには充分な言葉だった。少なくとも、今のトレイシーが嘘を言っているようには見えない。嘘を言う理由もない。
混乱するしかなかった。ならばどうして、一年後にあの未来が訪れるような結果になるのか?
――わ、わからない……。
何か、自分は見落としているのだろうか。セリーナは混乱するしかないのだった。
***
――少し、状況を整理する必要がありそうね。
一日の講義を終えた後。セリーナはカンバスに向かっていた。
美術部の活動は至って自由である。有名な画伯の絵画やその技術を学んでも良し、そのための読書にあててもよし、趣味の絵を描いてもよし、コンクールの絵を描いてもよし。趣味やコンクールといっても絵の種類は様々ある。油絵や水彩画もあれば、色鉛筆やクレヨンを使ったアート作品を作っても良い。なんなら、そういうものを求めているコンクールもあるほどだ。
そして最近は、デジタル画に走る人間もいる。彼らは美術室にパソコンを持ちこんで絵を描いていた。セリーナは専らアナログ専門であったが。
基本自分が描きたいのは、油絵か水彩画、色鉛筆画のいずれかである。最近は色鉛筆画が世間のブームになっていて、美しい色鉛筆イラストを求めるコンクールも少なからず存在していた。残念ながら、セリーナはまだ色鉛筆は勉強中で、入賞経験はないのだが。
――一年後。我がイーガン家では、魔法使いの一族の跡継ぎ……磔刑の魔女を決める、継承会議が行われることになる。
絵を描くことで、考え事を整理することができる。セリーナは、今日は色鉛筆を握っていた。薄い水色でアタリをつけていく。あまり強い線を描きすぎると後に残ってしまうので注意が必要だ。
――継承会議に参加する人間は、御三家の跡継ぎ候補と決められている。つまり、私達子供世代。私達が全員でイーガン家……つまり当代の磔刑の魔女の家の会議室で、魔女を決める会議を行うことになる。
仕組みは、シンプルだ。
話し合いの末、全員で磔刑の魔女に相応しい人間に投票し、多数決で決める。それだけである。この時、過半数の票を得る必要はない。純粋に一番票を集めた人間が次の当主・磔刑の魔女に選抜されることになるのである。
この時の投票に、大人たち(ここで言う大人とは親世代以上のことだ)は一切関わらないルールだ。というか、話し合いの会議室に入ることはできないし、中の様子に聞き耳を立てることも許されていない。その場で、子供達が自分の意思で誰が相応しいかを判断し、票を何処に入れるのかを決めるのである。
同時に、ただ一人の“追放者”もここで決められることになる。かつての世界では、トレイシーが磔刑の魔女に選ばれ、セリーナが追放者に選ばれてしまったがために――セリーナは追放という名目で処刑され、時間を遡る羽目になったのだ。
――……私が本当は磔刑の魔女に選ばれるのに相応しいとか、とりあえずそういう話は抜きにして。今冷静に考えるとおかしなことが多いわね……。
この投票、当然だが“継承会議だけで”票の行く先が決まるとはセリーナも思っていない。というのも、継承会議をする前に、大人達が子供達に指示を出すことは可能であるからだ。特に、会議にはまだ年端もいかない子供達が含まれている。彼ら、彼女らに大人が“会議の内容がどうであっても、最終的に誰々に投票しなさい”と指示を出していたであろうことは想像に難くない。
つまり、実際は継承会議が大切というより、それまでにいかに票集めのための裏工作ができるか、が大事なのだと言えなくもないのだ。
悲しいかな、前回のセリーナはそこを完全に怠っていた。自分は魔法の才能も抜きん出ているし、跡継ぎに選ばれないなんてことは有りえないだろうとタカをくくっていたのである。結果裏で手を回すようなことをしっかりやらなかった。兄や姉に頼んだり、幼い子供達にそれとなく圧力をかけた程度。その結果、跡継ぎの座を奪われてしまった上、追放=処刑のコンボを食らうことになってしまったのだ。そこは慢心だったと認めざるをえない。
――裏工作や、大人達からの指示は確実にあったはずだわ。問題は、誰がどのような指示を、どのような意図で子供達に与えたのかということよ。
過半数の票を得ずとも、最多得票数で魔女も追放者も決まる会議。そのはずである。
にも拘らず、不自然なほど魔女の投票はトレイシーに集まり、追放者の投票はセリーナに集まった。セリーナ以外の全員がトレイシーが跡継ぎに相応しいと票を投じで、逆に追放すべきはセリーナだとほぼ満場一致で決まったのである。
どちらの投票も、自分自身に入れることはできない。
トレイシーは、自身の兄であるドミニクを跡継ぎにするべしと投票していた。セリーナは、まず継承者候補にならないだろうと一番幼いタスカー家のコリンナに捨て票を投じた。ここの意図はわかる。問題は、何故ここまで他の人の票が偏ったのかということだ。
最多得票数であればいいのに、過半数がトレイシーとセリーナにそれぞれ集まった。ここに、何かの意図がないはずがない。誰かの工作がないとも思えない。
――だから私は……トレイシーが魔女の座を狙っていて、自分に票を集めるように工作した上、邪魔だった私を根回しして追放者にしたとばかり思っていたんだけれど。
丸いテーブルの淵を、グレーで塗りながらセリーナは思う。
つじつまが合わない。
トレイシーは、跡継ぎになりたがっていないというのか?
――どういうこと?……あれは、トレイシーの工作ではないの?それともトレイシーが、一年の間に心変わりをするということ?