雨が降っている中で立ち話もなんだから、と近所のカフェに連れ込まれた。
この時にはもう雨脚はかなり強くなっていて、暫く止まないだろうことが確定的だったというのもあるだろう。
「あんた、結構バカでしょ」
ついつい、セリーナは辛辣な物言いをしてしまう。
「傘一つしかないのに、私を入れたせいであんた半分濡れてんじゃない」
「ここでお前を傘に入れなかったら、俺が悪者になるだろう。周りにどんな目で見られるかわかったものじゃない。ずぶ濡れのお前を連れ込んだら店の中も濡れる、迷惑だ」
「そりゃそうだけど」
どういうつもりなんだろう。丸テーブルの向かい側に座ったトレイシーを見て、セリーナは思う。彼の体の右半分は明らかに濡れていた。セリーナを左側に入れたからだ。それでいて、セリーナの方は大して濡れていない。彼がどういう傘の差し方をしたのか明白である。
相合傘、なんて。小さな子供の頃にやったのが最後ではなかっただろうか。体を引き寄せられて、ちょっとだけドキドキしてしまったのはここだけの話である。
――何よ。……私のことなんか嫌いなくせに。私を裏切って殺す男のくせに……何、優しい振りしてんのよ。私は全部知ってんだからね。
自分が時間を逆行してきて此処にいる、なんて話をトレイシーにするつもりはない。だから、彼が将来自分を殺そうとしていることを知っている、なんてバラすつもりは微塵もないけれど。
つい、複雑な気持ちになってしまうのは否めない。中途半端に優しくされるのはモヤモヤしてしまう。――断じて、ときめいているわけではないけれど。
「大体、女子と相合傘なんかしてるの、ファンの女の子に見られたら面倒なんじゃないの?」
鼻で笑って言ってやると、トレイシーはきょとんとした顔になった。
「ファン?なんだそれ?」
「……ハイ?」
ちょっと待て。こいつ、まさか、学園に大量に自分のファンがいるという事実に気が付いていないのではなかろうな?
セリーナは唖然として、冗談でしょ?と繰り返す。が、トレイシーはぽかんとした顔のまま「何がだ?」と返してくるばかり。これはひょっとすると、ひょっとしなくても――。
「……まさか、自分はモテないとか本気で思ってる?」
「モテないだろう。自分で言っていても悲しいが、俺は愛想というものがない」
「あ、そこはわかってんのね……ってあのねえ!」
セリーナはがっくりとその場に崩れ落ちた。確かに、基本的に言葉数が少ない男であり、誤解されやすいタイプではあるんだろうなとは思っていたが。まさかのまさか、ここに天然属性まで加わってくるというのか。いや、むしろ俺様キャラだと言われた方がずっと納得できたというのに!
「あんためっちゃくちゃモテるのよ!?悔しいけどものすごい顔がいいじゃないの!」
「兄上の方がずっとイケメンだろう」
「タイプが違うのよタイプが!ドミニクはマッチョイケメンであんたはモデル系イケメンなの自覚しなさいよ!」
「よくわからん」
「よくわからんじゃねぇっての!そもそも学校内に『トレイシー・パーセルを観察する会』と『トレイシーの靴下の匂いを嗅ぎたいの会』と『トレイシーのお嫁さんになるために全身全霊で尽くす会』と『モテる男・トレイシーになるためにはいかにして努力するべきかを全力で話し合うオトコの会』と『パーセル兄弟を全力でストーキングする乙女の会』とその他もろもろいろんなファンクラブがあるのマジで一つも知らないわけ!?」
「最後の一つはストーカーではないのか」
「私もちょっとそれ思ったけど突っ込むところそこじゃなーい!!」
おかしい。自分ってツッコミキャラだったっけか、とセリーナは本気で思う。というか、靴下の匂いを嗅ぎたいの会ってなんだ、ヤバすぎるだろう!
そもそも、ちょっとトレイシーについて調査しただけのセリーナがこれほどの数のヤバいファンクラブを発見できてしまうのだ。実際はもっといろんな、それはもういろんなタイプの恐ろしいファンクラブがあるのは想像に難くない。
というか、さっきこのカフェに入る前に電柱の陰からちらちらとこっちを覗いている学生らしき人影があったのは、正直見なかったことにしたい気持ちでいっぱいである。もっと言うと、よくよく見ると男子も先生も混じっていたような気がするのは全力で知らなかったことにしたい。
「そもそも、俺とお前が同じ魔法一族の御三家で、家ぐるみの付き合いがあることはみんな知っているだろう。僅か数十メートル程度の距離を相合傘したくらいでなんだというんだ?」
トレイシーは本気で意味がわからない、という風に言ってきた。セリーナはテーブルに突っ伏すしかない。掠れた声で、モウイイデス、とだけ返した。自分が完全完璧にできるモテ男だと普通に自覚しているとばかり思っていたというのに、まさかのまさかである。
この話題はよそう、と決める。どう考えてもゴールが見えない。
「……それで」
カフェに入って、何も注文しないのはさすがにマナー知らずというものである。二人がそれぞれ紅茶を頼んだところで、セリーナは話を切り出した。
「何なのよ、その……私が間違っていること、って」
あまり楽しい話題ではないのは間違いない。自分が信じてきたことを、率先して否定されたい人間なんて誰もいないからだ。
それでも、今はセリーナ自身、誰かに話を聴いてもらいたい気分だったのも確かである。例えそれが、一年後に自分を抹殺することになる復讐相手であったとしても、だ。
「“貴族は生まれついての貴族であり、唯一ニンゲンと呼んで差支えない存在。それ以外の庶民は全てニンゲンではない”。……確かにそう思う貴族が少なからず存在するのは事実だ」
トレイシーは静かな声で語る。
「しかし、少なくとも魔法使いの一族ではそのような考え方は少数派になりつつある、ということをまずお前は知っておくべきだ」
「え」
「今の当主……セリーナのお父上のレナード・イーガン氏と、その兄上であるバリー・イーガン氏以降だ。大人の中にはまだ古い考えを持っている者もいるが、殆どの御三家の者は『魔法使いの力は、民を助けるためにあるもの”“その民というのは、階級を問わず全ての国民のことである』という認識になっているはずだ。知らなかったのか?」
そういえば、父がそんな話をしていたような気がする。ずーっと昔、流し聴いていたので覚えていなかったが。
「その考え方は、若い子供達……特に、タスカー家の子供達には強く浸透しているわけだ。セリーナはレナード氏の娘でありながらその考えを否定している。まず、そこで非常に彼らの印象が悪いと知るべきだ」
「それは……その、知らなかったけど。でも、何でお父上はそんな考えになったわけ?おじい様とは全然違うわ」
セリーナの今の“貴族以外の人間と慣れ合う必要はない”という考え方は。セリーナが懐いていた祖父と、それから学校で培われたものであるのは間違いない。セリーナが小さな頃、祖父が特に可愛がっていたセリーナだけを連れてあちこち国内旅行に連れていってくれたのだ。
その時、やや所得が低い人々が住んでいる町を見物しながら、祖父がこう言ったのである。
『ご覧、セリーナ。汚いだろう?』
身分が低いのは、前世で大きな罪を犯したから。
現世で、路地裏でのたれ死ぬことになった人間は、前世の罪を贖うことができなかったから。
貴族は逆。前世で善行を成し、神様に認められた人間なのである、と。祖父はセリーナに教え込んだのである。
『セリーナは、あのような場所に来世で落とされるような人間になってはいけないよ。綺麗な人達とだけ付き合い、綺麗な場所にだけ行くようにしなさい。そうすれば、来世も神様に認められて天国に行けるようになるだろうさ』
『わかったわ、おじいさま!』
その考え方は、フランシア王国の一大宗教であるフランシア教に即したものである。ただし、フランシア教は宗派が無数にあり、神様さえ一定ではないという難しい宗教であったりする。セリーナの祖父母が信仰していたトリシア派は、主に貴族の一部で強く信じられている宗派だった。つまり貴族という存在は神様に善行を認められ愛された特別な存在であり、ゆえに多くの特権が許されるのは当然のことであるのだと。
祖父と祖母からそう教えられてきたセリーナは、トリシア派の強い信者というわけではないもののなんとなくその教えが絶対のものであると信じてきたわけだ。
その上で、学校にはトリシア派寄りの考え方をする生徒達が、上級貴族程多く存在していた。彼らと付き合ううちに、よりセリーナも“貴族は特別”と考えるようになっていったというのもある。
実際、下層階級の者達が住んでいる町は汚いし、いつも嫌な匂いがしている。毎日風呂に入ることもしないし、お金を稼ぐためなら犯罪だって犯す連中が少なくない。そういう生き方ばかりしているから神様に愛されないでそんな人生になっちゃうのよ、と軽蔑していたのは事実だ。
「セリーナはおじい様を尊敬していたようだからな、影響を受けるのはわからないではない。だが……セリーナのおじい様と、お父上の仲があまり良くなかったことはお前も知っているんじゃないのか?」
「それは、まあ……どうしてだかは知らないけれど」
「それは、セリーナのおじい様が信仰していたフランシア教トリシア派の考えを、お父上が否定したからだ。お父上は若い頃から国内外を旅して、より多くの人々と接してきた。そして人の内面の美しさこそが、どのような外見や階級にも勝る貴いものであるという考えに至られたのだ。どのような身分や見た目、文化の人であろうとも、心が綺麗な者達と交流して共に生きて行くべきであると。それが最も尊いことであるのだと」
「内面の、美しさ……」
『それでも。仕事の内容がどうとかじゃないの。そうやって、誰かのために本気で頑張る心が尊いと思うの。……そのお母さんを尊敬して、自分も誰かの役に立てる人間になろうって頑張ってる、キャサリンのこともね。だから、あたしはキャサリンと一緒に遊ぶし、キャサリンのことも大好きなの』
気が付いた。
それは、コリンナが言っていたのと、同じことではないかと。
「コリンナは、特に現代の当主であるセリーナのお父上のことを尊敬している。そういった考えに心から感銘を受けたと言っていた。自分もそういった生き方をしたい、と。……ならば、見た目や身分だけで人を差別するようなセリーナを快く思わないのは当然だろう」
「……だ、だって私は」
「わかっている。セリーナと同じ考えを持つ人間もいるのだと。特に宗教が絡んでいる認識をそう簡単に変えることは難しいということはな」
でも、とトレイシーは続ける。
「セリーナ。お前の日頃の行いや言動は、お前が思っている以上に見られているということを肝に銘じた方がいい。それこそ、お前が……日頃からメイドたちを、下の階級の人間だからといじめてきたこともな」
「!」
その言葉に。
セリーナは、胸の奥がぎゅっとなるような感覚を覚えたのだった。