苛めてなんかない。セリーナは反射的にそう怒鳴ろうとして、口をつぐんだ。一応、店の中である。何より怒りのまま思いのたけをぶつけたら、きっと悪いことにしかならない――それくらいの自制は働いたのだ。
「言い分があるなら聴くが?」
思っていたよりずっと、トレイシーの声は穏やかだ。そのせいで、何だかさっきから胸がきゅっとなって仕方ない。
どうして、こんなにも泣きそうな気持ちになるのだろう。コリンナに嫌われていると知った時と似ているような、少し違うようなこの感覚。
「……メイドとか、執事とか……召使の連中は、みんな私達より身分が低いじゃない。身分が低いってことは、前世で罪を犯した人間だからって……そう、聴いてて」
「それだけか?」
「で、でも……ドジな奴はドジなのよ。そういう奴が失敗して腹を立てるのはおかしなことなの?私達は雇い主なのよ。あいつらに飯を食わせてやって、給料を与えてあげて雇ってあげているのよ。慈善事業やってるわけじゃない、給料分は働いてくれなくちゃ困るわ……!」
「その意見は尤もだな。しかし、鞭でメイドをぶったこともあるとお前の姉上からは聴いているが?」
ブリトニーめ、とセリーナは苦い気持ちになる。何もそんなところまで、トレイシーにチクらなくてもいいではないか、と。
「メイドのダーシー……だったか。彼女をぶった日、お前は学校で嫌なことがあってイライラしていたそうだな」
トレイシーは、容赦ない。
「そして、彼女に無理難題を言い渡した。流石に、夕食までの短い時間に、風呂場の掃除とキッチンの換気扇掃除、屋敷全てのトイレ掃除を全て一人でやれというのはあまりにも無謀だ。彼女はこなそうとしたがどうにもならず、他のメイドたちが手伝った。お前はそれを知って激怒して彼女を折檻した」
「だ、だってあの子が命令したことをやらないから!」
「やらない、というのは『可能だったがしなかった』ことを言う。物理的に可能だったと思うのか?」
「で、できるでしょ!あいつらは……っ」
「そう思うなら、お前自身で一度体感してみるといい。まったく同じ制限時間で、同じタスクがこなせるかどうか。……メイドや執事の仕事は、お前が思っているほど簡単じゃない。自分でもわかっているんじゃないのか?」
「……っ」
――わかってるわよ、そんなこと。
セリーナは、膝の上で拳を握りしめる。
『セリーナは、執事さんメイドさんたちを馬鹿にして、ずっと虐めてきたでしょう?そういう行為を、私はずっと軽蔑していました。何度私が言っても治らないんだもの。でも、これで少しはわかったでしょう?……私達が飲むこの紅茶一杯入れるだけで、どれほどの苦労があるか。私達が、あの方々に支えられているか』
姉に、フレイルピーチのミッションを課された後。セリーナは自主的に、何度か収穫作業に参加したのだった。そして思い知った。彼等彼女等が簡単にやっているように見えた多くの作業が、想像以上に繊細で、難解で、労力を要するものだったということが。フレイルピーチ一つ取ってもそうなのだから、広い屋敷中の清掃作業なんかはさらに大変に違いない。
自分は、それを全く知らなかったし、考えたこともなかった。ブリトニーがそれを自分に教えるために、あんな事をやらせたのだと今ならわかる。
きっと、あの日ダーシーに命じた清掃作業も相当無茶なものだったのだろう。
自分がやれと言われても絶対できないだろうことをやらせようとしたのだと、冷静になった今ならわかる。ただ、わかりたくないだけだ。あの日の己がやったことが、ただの八つ当たりだったということが。
「身分とか、そういう問題じゃないんだ」
このタイミングで、紅茶が運ばれてくる。自分のカップにミルクを入れながら、トレイシーが言った。
「もう少し現実的にものを考えろ。メイドと執事たちが今やっている仕事。それが全部自分達に降りかかってきたらどれほど大変になる?屋敷中の掃除、庭の掃除、果樹園の世話、薔薇園の世話、料理、ベッドメイキング、その他もろもろ。俺達ができないことを、彼らは代わりにやってくれている。彼らが役立たずだと思うなら、全員クビにしてみればいい。すぐに、自分達がどれほど困ることになるかわかるはずだ」
「ま、また新しく雇えばいいじゃない。あいつらなんて無限に……っ」
「無限に湧いて出るようにいるとでも?彼らにだって仕事と雇い主を選ぶ権利はある。親切に接してくれて無茶な仕事を要求しない貴族と、八つ当たりばかりしてきて無理難題を押しつけてきて挙句折檻してくる貴族、どっちに雇われたいかという話だ。そういうことをしてメイドたちを切り捨てていったら、近い未来必ず君の家に雇われたい召使は誰もいなくなってしまうだろう。そうなった時、どれほど彼らに助けられていたかを理解しても遅いんだ」
「そ、それは……」
反論の言葉が見つからない。セリーナは自分の目の前の紅茶を見つめて途方に暮れる。
己が間違っていたなんて認めたくはない。認めたくはないけれど。
「貴族は、選ばれた偉い人間なんかじゃない。本当に偉いのは……貴族ができない仕事を、代わりに引き受けてくれている多くの労働者たちだ」
トレイシーは紅茶を一口飲んで、はっきりと断言した。
「貴族の大半がいなくなっても、国はさほど困らない。しかし、税金を納めてくれている庶民が殆どいなくなったら国は確実に回らなくなる。我々貴族がするべきことは、その彼らに感謝して、自分が恩恵を受けている分をどれだけ彼らに返していくかどうかだ。……前世に罪があったかどうかなんて、そんなこと我々ただの人間にわかるはずもないから尚更にな」
「……だから、召使どもを大事にしろって?」
「それだけじゃない。弱者を大切にすることも必要だ。コリンナがお前に対して怒ったのはそういうことでもある。お前が、ドッジボールでキャサリンという少女に侮蔑の視線を送ったことに気が付いたからだ。彼女が仲間にパスをせず、自分でボールを投げたことに納得がいかなかった、そうだろう?」
あの子、とセリーナはため息をつくしかない。ドッジボールに夢中になっているとばかり思っていたのに、どれだけしっかり自分の様子を見ていたというのか。想像以上に観察力がある。子供っぽい少女だと思っていたのに、まったく油断ならないではないか。
「それこそ、私は間違ってないと思うけど?」
苛立ちを落ち着けるように、セリーナも紅茶に口をつけた。
「だって、ドッチボールのチームのバランスも、能力も、一目見て明らかだったんだもの。あのキャサリンとかいう女の子が貧民の見た目であったことを度外視してもよ。あの体格、あの細い腕で強いボールが投げられるようには見えなかったわ。実際、投げたボールはへろへろで、すぐに相手チームにキャッチされてしまった。動きも遅くて、避ける方でも貢献できているようには見えない。仲間達の足を確実に引っ張っていたわ。コリンナにパスをしていれば、もう一人二人アウトにできたはずよ」
足手まといの人間を、何故チームに入れるのか。そしてそういう人間に何故配慮をする必要があるのか。セリーナは、それがどうしてもわからなかった。キャサリンという少女がコリンナにとって特別な友達であるらしい、ということは後で証言で聴いてわかったけれど、でもそれだけである。
仲良しであることと、役立たずをチームに入れることはイコールではないはずなのに。
「世間に、本当の意味で役立たずな人間など一人もいるものか」
そんなセリーナに、トレイシーは反論する。
「例えば、セリーナ。お前はとても絵が上手い。俺とお前が一緒に油絵を描いたら、間違いなくコンクールで賞を取るのはお前の方になるはずだ」
「そうね、それが?」
「しかし、荷物運びをしたら俺の方が力も体力もある。お前より、多くの荷物を運べるし、長く持つこともできる。……これは、男女の差の問題じゃない。人によって必ず、得意なことと苦手なことがあるという証明だ。お前が得意なことは誰かができないし、お前が出来ないことは誰かが得意だ。お前より、遥かにメイドたちの方が掃除が上手いようにな」
あのキャサリンという少女だってきっとそうだ、と彼は言う。
「ドッジボールでボールを投げるのは苦手だったのかもしれない。しかし、実は作戦を立てるのが上手いのかもしれないし、仲間を励ますのが上手いのかもしれない。あるいは、非常に向上心があって、成長途中であったのかもしれない。……一面だけ見て、その人が役立たずの弱者と決め付けるのは早計ということだ。コリンナが本当の意味で、お前を軽蔑したのはそこだろう。改めた方がいい」
「……本当に不要な人間なんかいないってこと?」
「ああ」
「じゃあ……」
未来のことを、トレイシーに話すつもりはない。そんなことをしたら、未来にどんな影響があるのかわかったものでもないし、禁術のことを暴露しなければいけないのだから。
それでも、セリーナは一つだけ、尋ねずにはいられなかったのである。
「トレイシーは……私のことも、不要な人間だと思ってないってこと?」
その時、自分はどんな顔をしていたのだろう。きっと泣きそうな、情けない顔をしていたに違いない。トレイシーが明らかに目を見開いて驚いていたのだから。
「当たり前だ、何故そんなことを訊く?」
――訊くわよ、だって。
セリーナは、心臓が引き絞られるような気持ちになった。
――だってあんた、私を最終的に追放者に選ぶんでしょ。一族に、要らない人間だって。……どうしてよ。そう思ってるなら、なんで?
わからない。トレイシーに、当たり前、と言われた瞬間涙が出そうになったことも。
嬉しいと思ってしまった自分も――矛盾に困惑する己も。