どうやら、通り雨だったらしい。少しトレイシーと話をしていたら、いつの間にか空には晴れ間がのぞくようになっていた。雲の切れ間から、天使の梯子が降りてきている。
「濡れないで良かったな」
「……うん」
カフェを出たところで、流れるようにトレイシーにそう言われた。セリーナは、どうにか頷くしかない。
濡れないで良かった、のはセリーナだけ。結局、トレイシーはセリーナを傘に入れてしまったせいで体が半分濡れる羽目になっている。少しばかり店内の風で乾いただろうが、まだじっとりと湿っているはずだ。
――あんたがわかんないのよ。
自分を追放者に追いやった、憎い相手。その認識が、早々に揺らぎ始めている。前の世界ではなかった出来事を繰り返すうちに、トレイシーという人間がどういう人物かわからなくなりつつあるのだ。
彼は本当に、自分を裏切ったのだろうか。
本当に、彼は自分のことを憎んで、処刑されることがわかっていて自分を追放者に選んだのか?
『セリーナ・イーガン。貴様には、我が魔女の一族の跡継ぎに相応しくない。継承者どころか、一族として迎えていること自体が恥というもの。貴様は一族の血を継承する資格もない』
――いえ、間違えるべきじゃないわ。確かにあいつはそう言って、私を冷たい目で見降ろした。そして、私に票を入れたのよ、お姉様やみんなと同じように……!
彼が自分を追放者に選んだ、その事実は覆らない。
ただ、もし本当に言葉通りの感情しか自分にはないのなら。何故、困っていた自分に傘を貸してくれ、カフェに入れるような真似をしたのだろう。
今のがただの雨宿りではないことくらい、セリーナだってわかっている。コリンナからメールが来てなんとかしようと思ったというのもあるのだろうが、多分それだけでセリーナに声をかけたわけではないはずだ。
セリーナ自身が納得できるかどうかはともかくとして。今の時間は、彼なりにセリーナのためを思って用意したものであるのはほぼ間違いあるまい。それくらい、セリーナにも分かっていることである。
「……どんな人間にも、役に立つところはある。だから、一見足手まといに見える奴のことも優しくしろってあんたは言いたいわけ?そうすれば、みんなに好かれるようになるって?」
セリーナが苦い気持ちでぼやくと、その認識が既に間違っている、とトレイシーは返してきた。
「そもそも、本当の意味で足手まといなんて存在しないと俺は言っている。大切なのは、自分も含めて完璧な人間はいないと認める勇気と、相手の良いところを見つめようとする努力だ。お前だって、自分が人知れずしてきた努力に誰かが気づいてくれて、それを認められたらうれしいだろう?その人物のことは、自分の方も評価したいと思うようになるだろう?」
「そりゃそう、だけど」
「誰かに愛されたいなら、自分がまず誰かを愛さなければいけない。自分を愛する気もない相手を好きになるなんてことは難しいわけだからな。それから、自分は何でもできるなんて傲慢を捨てること。自分もまた、いつも誰かに助けられている立場だと理解すること。己にも弱点があると認識することが重要だ。お前ならきっとできる」
「トレイシー……」
傘袋に溜まった水を捨て、傘の水を切りながら言う青年。
お前ならきっとできる。その言葉はつまり、彼自身そうして欲しいとセリーナに望んでいるということだ。
確かに、セリーナ自身、自分を認めない人間に価値などないと思ってきたのは事実。相手もそうかもしれない、なんてことは今まで考えもしてこなかったことだ。
そして、メイド達を足手まといや弱者、下民と蔑んできたこと。それらをコリンナ達が知っていて納得できていなかったというのなら、評価が落ちるのもわからない話ではない。
そういう話が、彼女らに知られているとは思ってもみなかった。もっと言えば、知られていてもそれで彼女らに“いなくなってほしい”と思われるほど嫌われるとも思っていなかったのだ。それ以上に、自分は美しく優秀で、誰からも必要とされているとばかり思っていたから。
わかりたくない。それでも、本当はセリーナもわかっている。
あの投票が単なる陰謀ではなく、彼ら彼女らの心からの意思であった可能性も高いということを。
「……わからないわ」
ぽつり、とセリーナは呟いた。
「あんたの理屈が正しいっていうなら。何で継承会議では……順位をつけなくちゃいけないの。一番優れている継承者、一番役立たずの追放者、なんて」
継承会議が一年後に行われることはもう決定済み。そして、既に参加者たちがみんな、投票先を考え始めているであろうことはコリンナの証言からも想像がつくことだ。
つまり、トレイシーも決めているかもしれないということ。一体誰を選び、誰を捨てるのかを。この時点でその意思が固まっていてもおかしくはないわけで。
「俺は」
すると、トレイシーは意外なことを言った。
「その考え方も、間違っていると思っている」
「え?」
「磔刑の魔女は、確かに一族の当主と定められている。が、俺は次代の磔刑の魔女に選ぶ人間が、一族で最も優れている人間かというとそうではないと思っている」
「どういうこと?」
「お前は、優れていることと、向いていることをイコールに考えすぎなんじゃないか。例えば、跡継ぎの兄弟たちの中で最も魔法が得意で、魔力が高いのは多分俺とお前だろう。でも、じゃあ磔刑の魔女を継ぐに相応しい人間かというと、俺はお前も自分もそうではないと考えている。向いていないからだ」
向いていない?とセリーナは鸚鵡返しに尋ねる。
「そもそも継承会議が来年三月に行われることが決定したのは……この国の情勢を考え見てのことだ、と俺は予想している。セリーナのお父上は、詳しい理由を述べなかったが、御三家の当主は政府と密接に関わることも少なくないからな。恐らく、俺達が知らない情報も入ってくるんだろう。ひょっとしたら、近く戦争になる可能性もあると睨んでいるのかもしれない。そうなったら、魔法使いの一族は総出で、国を守るために戦わなければならなくなるからな。むしろそういう契約を国と交わしているからこそ、現在国から保護され、支援を受けられているとも言える」
それは、セリーナも知っている。
現在の魔法使いの一族と魔法の力については、フランシア王国政府公認のものとなっているのだ。自分達はみんな、普段は違う仕事をしたり学生をやったりしているが、有事の際は国を守る為魔法の力を使って戦ったり守ったりすることを約束させられている。
それがあるからこそ、政府は魔法使いの一族に魔法の研究費用を支援してくれているし、魔法文化の保護に積極的な政策を打ち出してくれているのだ。
継承会議を急ぐということは、裏を返せば『近く当主が亡くなったり、身動きが取れない状況に陥る可能性がある』と危惧されているということでもある。早々に、次の当主を決めて一族をまとめる必要があるということだ。ゆえに、セリーナの父が何か知らない国の危険を、政府から知らされている可能性は十分考えられるとは言えるが。
「平たく言えば。次の磔刑の魔女……当主となる人間は、軍人として魔法使いの一族の指揮をすることを求められる可能性もあるということ」
「ぐ、軍人って……一族を率いて戦争をするってこと?」
「そうだ。だから、そういうことに向いている人間を抜擢するべきだ、と俺は考える。俺とお前はまだ学生で社会人経験もない。幼い子供達など論外だ。そして、リーダーシップを取るのにより向いている人間……そう考えるなら、おのずと票を入れるべき相手は絞られてくる。俺はそう考える」
道理で、とセリーナは納得した。
彼は継承会議で、兄のドミニクに入れていた。トレイシーとセリーナより年上の人間というだけで絞られてくる上、ドミニクは現在軍で働いているはずである。戦場の経験もあるし、指揮官として一番向いているのかもしれない。
彼は優れた魔法使いよりも、優れた指揮官という意味で兄に票を入れていたということだ。なるほど、これは理解できなくもない。継承会議が早々に決定したことから、そこまで考えていたとは。
「じゃあ、追放者は?それこそ、役立たずの人間を選ぶしかないでしょ。むしろ、そういう仕組みなんじゃないの?あんたの言うように、“役立たずなんかいない”って考えは通用しないと思うんだけど?」
こちらはどう考えているのだろう、彼は。セリーナが問うと、トレイシーは“これも同じことだ”と告げた。
「役立たずの人間ではなく、一番魔女に向いていない人間を選ぶ。俺はそういう認識である。あるいは……戦争に巻き込みたくない人間を」
「え」
「一族を追放されたからといって死ぬわけじゃない。むしろ、もしも魔法使いの一族が戦火に巻き込まれる可能性があるというのなら。戦いに一番向いていない人間を安全圏に避難させた方が無難だろう」
「そ……」
それってどういう意味なの、と。その言葉を、セリーナはギリギリで飲みこんだ。
トレイシーの真剣な目は、嘘を言っているようにはとても見えない。彼は、追放者が処刑されるという事実を本当に知らなかったというのか?いや、確かにセリーナも自身が処刑されるまで知らなかったのだけれど――。
――それに……その考えが本当なら、あんた、もしかして……。
セリーナが役立たずだから追放したわけではない、というのか?むしろ、守るために?
――わかんない。わかんないわよ、私は……!
本当に、彼に復讐するのが正しいことなのだろうか。
セリーナは、己の足元が大きく揺らいでくるのを感じ取っていたのだった。