遺跡ではドタバタしたが、それ以外は特に問題なく旅行を楽しむことができた。
夜の立食パーティも楽しかったし、トレイシーは切り替えてセリーナをダンスにも誘ってくれた。セリーナも、少しの間柵を忘れることができたのは事実である。
ただ、どうしても凝りが残ったのは事実だった。
『セリーナが見たビジョン。磔刑の魔女の称号。……やはり、嫌な予感がしてならない』
トレイシーは真剣な顔で、セリーナに言ったのだった。
『まだ継承会議までに時間がある。……とりあえず俺も色々と調べてみるから、セリーナは暫く自分が見たことを秘密にしておいてくれ。特に、お父上には』
それは。セリーナの父が禁術に手を染めようとしている、あるいは既に染めた可能性を疑ってのことだった。セリーナも異論はない。尊敬する父を疑いたいわけではないが、状況的に見て彼が何も知らないとは考えにくいからだ。
無論、既に同じ禁術が行われた後であるということは無いはずである。ガヴァナー家が滅んだいきさつを知っていれば、まったく同じ術を試すことがどれほどリスキーなのか理解できないはずがない。生贄となる人間が多数地下に運び込まれていたら、セリーナや兄や姉が気が付かないはずがないというのもある。
それに、自分がビジョンで見た通りなら――磔刑の魔女を産み出す依代は当主であるはず。内臓を全て持って行かれて、生きていられる人間などいない。少なくともセリーナの父は生きているのだから、同じ儀式を実行した後ということはありえない。
――私は、本当に正しい選択をしたのかしら。
遺跡でのビジョン。あれを、トレイシーに話して本当に正解だったのか。日を負うごとに焦燥は強くなる。トレイシーが、明らかに忙しく何かを調べ回っまわっているのがわかるからだ。自分は彼に、いらぬリスクと負担を強いたのではないか。そうだ、そもそも彼に何も話さないという選択肢だって自分にはあったはずだというのに。
明らかに、逆行する前とは違う世界線を辿っている。
セリーナは、少しずつトレイシーとの関係を修復しつつある。姉とも犬猿の仲ではなくなってきたように思うし、兄とも話す機会が増えた。それから――タスカー家のコリンナとも、あのドッジボールの会話以降少しずつ話をするようになってきてはいる。コリンナの方も、セリーナの姿勢が変化しつつるのがわかったからだろう。初見の時よりは緊張せず、会話をしてくれるようになった。
何より変わったのがメイド達の態度である。四月、五月、六月――七月になる頃には、セリーナは一部のメイドや執事達とは話をするようになっていた。特に、ダーシーとお茶を飲む機会が増えた。彼女のほうが、自分を誘ってくれるようになったのである。
ほんの数ヶ月前には、こんな光景けして見なかったに違いないのに。
「わあ」
ダーシーは、やや明るい黄色味を帯びた紅茶を見て、すん、と鼻を鳴らした。レッドオレンジティーですね、と顔を綻ばせる。
「いい香り……セリーナお嬢様が入れて下さったんですか?」
「まあね。……ちょうどレッドオレンジの実がついたところだったから入れてみたの。今年のは出来がいいそうね。皮がとても剥きやすかったわ」
「ありがとうございます、頂きます」
かつては、下民だから、ドジな召使いだからの蔑んでいた少女。彼女とこうしてメイドの休憩室でお茶をするようになった理由はただ一つ。ダーシーの方から、声をかけてくれるようになったから。そして、他でもなくセリーナがその誘いに応じるようになったからである。
セリーナとしても、知りたかったからだ。今なら、自分が彼女にどれほど過酷な仕打ちをしていたのかがわかる。いくら仕事をこなせなかったから、失敗したからといって鞭で折檻するなど正気の沙汰ではない。むしろ、そのような目に遭って何故、ダーシーはこの仕事をやめなかったのだろう?
そして何故、セリーナのことを咎めないのだろう?
「ずっと訊きたかったのよ、ダーシー」
彼女に誠意を持って向き合うべきだと、もうセリーナもわかっていた。同時に、真剣に謝罪するべきだということも。
今ならブリトニーが、コリンナが、トレイシーが自分に何を伝えようとしてくれていたのかがわかる。
庭の花がいつも鮮やかに咲き誇るのは誰が手入れしてくれているからなのか。
窓に美しく自分の顔が映るのは誰が磨いてくれているからなのか。
いつも清潔で寝心地の良いベッドを作ってくれているのは誰なのか。
廊下を、部屋を歩いていて埃が舞わないのは誰が掃除してくれているからなのか。
そして、毎日美味しい食事が当たり前に食べられて、清潔なお風呂に入れるのは誰のおかげなのか。
きちんと見つめ直せば、わかる。自分達は“給料を与えてやっている”わけじゃない。彼らに給料を支払って“仕事をしてもらっている”立場を忘れるべきではなかったということが。
「それから……ちゃんと謝らないといけなかったわ。今まで辛く当たってきて、ごめんなさい」
ブリトニーに木登りさせられた日から、随分と過ぎてしまったけれど。自分の正しさを盲信して、間違いを認められなかった己より。間違えたときは誰かにきちんと頭を下げられる己の方が、よほど強くなったと思うのだ。そう、思えるようになったのだ。
誰かに愛されたいなら、愛する努力を怠ってはいけない。
今ならわかる。継承会議で自分が嫌われたのは必然だったとうことが。むしろ、よくぞあの日まで自分が嫌われている事実に気づかずに生きてこられたものだと思うほどである。
「だいぶ遅くなってしまったけれど……反省してる。許さなくてもいいから、教えて頂戴。何故、あんな仕打ちをした私をお茶に招いてくれるの?本当は憎んでも仕方なかったはずなのに……仕事をやめることもせずに、何故?私だったら、ムカついて紅茶に下剤を入れるくらいのことはしてるわ」
「えっ!?この紅茶下剤入ってるんですか!?」
「い、入れてないわよ!ものの例えだってば!ていうか、私が貴女を憎んでるんじゃなくて、貴女がそれくらい私を憎んでるんじゃないのかって意味!」
相変わらずこの娘は天然である。下手をするとどんどん話が脱線していく。――まあそれも、大分慣れては来たのだが。
「……憎むだなんて、そんな」
ダーシーは、少し困ったように笑った。
「だって、私がドジなのも失敗が多いのも……事実でしたから。叩かれても仕方ないなと思ってました」
「けど、私が……普通に考えてこなせないレベルのタスクを押し付けたり、八つ当たりしてたことには気がついてたでしょ?何より、いくら失敗したからって、折檻は……」
「鞭で打たれるのは怖かったし、痛かったし、やめて頂きたかったです。でも……それでも私はまだ、マシだって思ってましたから」
「え」
どういう意味なのか、とセリーナは考えてから気がつく。
ダーシーが元々は孤児院の出であったことを思い出したのだ。そこから、父が我が家に雇い入れた娘の一人であると。
自分は直接孤児院を見ていないが、もしや。
「……ダーシーがいた孤児院、酷いところだったの?」
セリーナの言葉に、こくり、とダーシーは力無く頷く。
「ルチアンマン孤児院というところだったのですが……そこはフランシア教の教会が運営していたんですけれど。神様の名に相応しくないほど、荒れたところだったんです。まだ小さくて力の弱い孤児たちに過酷な労働をさせていました。掃除だったり、荷物運びだったり……それから、宗教の強制。これが一番キツイという声もありました」
「フランシア教って、宗派によってまるで内容が違ったわよね?」
「はい。ルチアンマン孤児院はトリシア派の教義を子供達に強制していました。トリシア派の教えは、セリーナ様のお祖父様が信仰していらっしゃいましたから、詳しくご存知かと思います。私達労働者階級や下層階級の孤児たちは……あの教えの中では人間として扱って貰えないのです。前世で罪を犯して、だから低い身分に生まれたということになっているから。生まれながら罪人で、生まれながらのゴミ。私や仲間たちは、息をするようにシスター達に罵倒されていました」
それだけではありません、とダーシーは続ける。紅茶のカップを持つ手が、微かに震えていた。恐ろしい記憶をどうにか見つめ直そうとするかのように。
「シスター達にも……神父様にも、同性愛の気がありました。子供達はみんな、性欲の捌け口にされたんです。しかもそのやり方がとても残酷で、子供達の体の見えないところに傷をつけて、苦しめて楽しむ人がたくさんいました。私の友人だった男の子は、いつもお腹やお尻が痛いと泣いていました。そして……最後はボロボロにされて、いつの間にか施設からいなくなっていました」
それが何を意味するのかわからないほど、セリーナは子供ではない。虐待して、うっかり子供を殺してしまっただろうことは想像に難くなかった。
トリシア派の熱烈すぎる信者たちにとっては、身分の低い子どもたちへの仕打ちさえ正当化されてしまうのだろう。これは、前世の罪。前世で罪を犯したから、現世でこれだけの罰を受けて苦しめられても自業自得なのだと。幼い子どもたちに、そのような理屈が理解できるはずもなく、本来殺されていい理由などあるはずもないというのに。
きっと、殺されて、ゴミのように捨てられたのだ。他の子供達には本当の事を教えることさえせずに。
「私も……」
ダーシーは、自分の右胸に手を当てる。
「実は詰め物をしてますけど本当は……右のおっぱいがないんです」
「え」
「小さな頃に、罰だと言われてシスターに切り取られてしまって。麻酔なんてありませんでした。痛くて苦しくて熱も出ました。そして、奇跡的に傷が回復した後も、片方しかおっぱいがない私を指さして何度も嘲りました。お前はもはや女ではない、そんな価値もないゴミだと。そのように生まれついた存在だと」
だから、と。彼女は寂しそうに笑う。
「鞭でぶたれても……それでも、この家の方が私にとっては全然マシで。同時に、他に行くところなんてなかったんです。この家の仕事をやめたら、私なんて孤児院に逆戻り……美人でもないし、こんな体だから娼婦としてさえやっていけないでしょう。どんなところに売られるか、何をやらされるかわかったもんじゃないんです。だから、お嬢様が怖いと思っても逃げることはできませんでした。他に、選択肢などなかったから」
「ダーシー……」
知らなかった。セリーナは、唇を噛みしめる。嫌なら仕事なんかやめればいいのに、なんて軽く考えていた。どうせ彼女らの代わりなんかいくらでもいるのだから、とかつてのセリーナならきっと言い放ったことだろう。
でも。セリーナが思っていたよりずっと、彼ら彼女らは覚悟を決めてここにいたのだ。覚悟を決めざるをえなかったとも言うべきだが。
「……何も、知らなかったわ。本当にごめんなさい」
たまたま恵まれた家に生まれた。それは自分の努力の結果でも何でもなかったというのに、どれほど己は驕っていたのだろう。そして、自分が恵まれていることにも気がついていなかったのだろう。
恥ずかしさを隠すように紅茶に口をつければ、それは違います、とダーシーの穏やかな声が降ってきた。
「私が自分の過去を語らなかったのだから、ご存知なくて当然です。……むしろ、今のお嬢様だからこそ話そうと思ったんですよ」
「今の?」
「はい」
顔を上げれば、そこには。花が咲いたような笑顔のダーシーの姿があった。
「私、差し出がましいですけど今なら……今のお嬢様となら、友達になれるかもしれないって思うんです。こ、こんなこと言っては失礼かもしれませんが……最近はお仕事もゆるくなったし、気遣う言葉もたくさんかけてくださるようになって、それで……!」
ワタワタする彼女に、トレイシーの言葉が重なったような気がした。
『誰かに愛されたいなら、自分がまず誰かを愛さなければいけない。自分を愛する気もない相手を好きになるなんてことは難しいわけだからな。それから、自分は何でもできるなんて傲慢を捨てること。自分もまた、いつも誰かに助けられている立場だと理解すること。己にも弱点があると認識することが重要だ。お前ならきっとできる』
――まずは自分が、誰かを愛さなければいけない……か。
確かに、その通りなのかもしれない。
誰だって、自分を好きになろうと頑張ってくれるひとは、好ましく思うものなのだから。
セリーナが変わろうとしたことで、ダーシーもまた変わろうとしてくれているのなら。それは間違いなく、良い結果なのではなかろうか。
「……次は」
セリーナは口を開く。
「クッキーの焼き方を教えてくれないかしら、ダーシー。ジェーンから聞いたの、ダーシーはクッキーを焼くのが上手いって」
「わ、私で良ければぜひ!」
その言葉で、充分ほしい答えにはなっただろう。ダーシーが声を弾ませた、まさにその時だった。
開けっ放しだった休憩室のドアの向こうから、執事頭のマイルズが声をかけてきたのである。
「セリーナお嬢様。……お嬢様にお客様がいらっしゃってますが、どうなさいますか?タスカー家の……サイラス様とオードリー様なのですが」