校舎へ続く海沿いの道は、ちょうど潮が引きかけた時間帯で、岩場がところどころ濡れていた。
制服の裾が風に揺れ、肩にかけたギターケースが、リズムを刻むように背中を打つ。
風の中にある湿気は、町全体を包み込んでいて、まるでどこへ行っても逃れられない膜のようだった。
「──おう、航!」
後ろからスケボーを抱えた拓が駆けてくる。キャップのつばを指で直しながら、陽に焼けた笑顔を向けてきた。
「今度の土日、練習する? 新曲のリフ、考えてきたんだよ」
「……ああ、いいな。母さんがうるさくなければ、な」
拓は苦笑いを浮かべ、スケボーを肩に担ぎ直した。
「また、進路の話?」
「うん。卒業したら東京行きたいってのにさ。地元の大学に進学しろとか、そんな話ばっか」
「もっと本格的にバンド活動したいって、言ってるんだろ?」
「言ってる。何回も。でも、全然聞いてくれない」
言いながら、心のどこかで空気が滲んだような感じがした。歩幅が自然とゆるくなる。足元のコンクリートには、風で運ばれた砂が細かく溜まっていて、靴音にしゃり、と音を重ねた。
「でもよ、おれらも本気でプロ目指すなら、もっと腕、上げてかねえとな」
拓の声は、普段と変わらないように聞こえる。でも、その奥にある微かな真剣さを、航はちゃんとわかっていた。無責任な夢じゃない。ちゃんと叶えようとしている言葉だった。
「……わかってるよ」
応える声は、少しだけ遅れた。ほんのわずか、追いつけないまま。
◇
軽音楽部の部室は、旧校舎棟の三階。使い込まれたアンプとラックが並び、床にはところどころコードが這っている。
埃っぽい空気のなかで、扇風機だけが気だるく回っていた。
だが照明が灯ると、その空間は少しだけ今の時間になる。
ここでしか鳴らせない音がある──そんな気がしていた。
「ワン、ツー、スリー、フォー!」
拓のカウントで演奏が始まる。ドラムが小気味よく跳ね、陸のベースが支える。
航のギターが歪みを乗せて重なり、音の厚みがじわじわと部屋を満たしていく。
そのなかで、明澄のキーボードが丁寧に音を添える。
彼はリズムの隙間を見極めるように、鍵盤のタッチを調整していた。軽快で、けれど目立ちすぎず、音の輪郭を縁取るような役割。
……しかし、サビの入りで違和感が走った。
航の右手がわずかに遅れた。ほんの一拍。けれど、当人には痛いほどわかる誤差だった。
音はそのまま進む。航は止めなかった。
だが、拓が首を傾げ、スネアを抜いた瞬間、演奏がばらけた。
「──ちょっと止めよう」
拓の声が部屋に落ちる。
ドラムが止まり、音がふっと消えた。扇風機の風切り音だけが、妙に大きく響く。
「航、お前の入り、ちょっと遅れてた」
声は柔らかいが、曖昧さはなかった。
「……わかってる」
航が視線を落とす。コードを押さえた左手に、微かに力が入っていた。
苛立ちというより、自分に対するじれったさだった。
「先輩、もしかしてちょっとテンポ早かったっすかね? オレ、もう少し抑え気味にします!」
明澄がパッと顔を上げて、タブレットを操作しながら声を投げた。
空気が少し沈んでいるのを感じて、場をほぐそうとしている。
航の方をちらりと見てから、にかっと笑う。
「いや、でもイントロのキメ、さっきより全然カッコよかったっすよ! ね、澤村先輩もそう思いません?」
「……うん。全体としては、よくなってます」
陸がベースの弦を指先で押さえながら、落ち着いた声で応じた。
「ただ……航先輩、今日はちょっと入りが不安定な感じでした。あの……無理はされてませんか?」
言い回しには遠慮が混じっていたが、そのぶん真剣さもにじんでいた。
「別に……大丈夫」
そのまま黙り込んだ航に、誰も強く問い詰めたりはしなかった。
ただ、それぞれのやり方で、彼の沈黙に向き合っていた。
音の中に、会話では足りない感情がある。
彼らは、それを知っていた。
「合わせ直そう。もう一回、Bメロから入ってみよう」
拓がスティックを軽く打ち鳴らし、リズムを刻むように膝でカウントを取った。
航も無言で頷き、再びギターのネックを握り直す。
陸のベースが静かにうなり、明澄のキーボードが音を探るように鍵盤の上を滑る。
「ワン、ツー、スリー、フォー──」
今度は噛み合った。
航のピッキングは芯を取り戻し、リズムがなめらかに絡み合う。
音が部室の中でひとつにまとまっていく感覚。息が揃いはじめた。
──ああ、やっと入ってきた。
そう思った、その瞬間だった。
「すみませーん、軽音部の人いますかー!」
ドア越しに、やや上ずった声が飛び込んできた。
音の波が、一瞬で崩れた。
拓がドラムの音を止め、明澄がキーボードから手を離す。
航はピックを握ったまま顔を上げた。
扉が少し開き、見慣れない男子生徒が顔を覗かせていた。
明澄のクラスメイトのようだった。たしか、他の部活の。
「職員室から伝言です。卒業生の人が来てて……森田先生が、軽音部代表に会いたいって」
「卒業生?」
拓が眉をひそめ、航と目を合わせる。
さっきまで集中していた空気が、音もなく抜けていく。
「……わかった。ありがとう」
航は立ち上がり、ギターをアンプからそっと外す。
せっかく掴みかけた何かが、手のひらからするりと抜けていくような感覚だけが、胸の奥に残っていた。
◇
職員室の前で足を止めた。中から話し声が漏れてきて、ドアのガラス越しに見える顧問・森田の姿が、どこかいつもより落ち着きなく見えた。
拓が無言で頷く。航も仕方なくノブを回した。
「失礼します──軽音部です」
声が少し裏返った。森田がこちらに気づき、椅子を回して立ち上がる。
その隣には、見慣れない男がいた。黒いジャケットにスニーカー。バッグのストラップには、音符のチャームが揺れていた。
「来たね。紹介しよう。君たちに話した卒業生の大川優さんだ。今は東京で音楽関係の仕事をしてる」
東京で──その言葉に、航の心がかすかに波打った。
「はじめまして、大川です。よろしく」
柔らかく差し出された手。握り返すと、思っていたより温かくて、しっかりとした握力があった。
手のひらの質感が、そのまま“現実”の重さのように感じられた。
「せっかくだし、君たちの音を聴かせてくれないか」
そのひと言に、航の胸の奥に、ゆっくりと冷たい波が広がっていく。
練習不足。真っ先に、その言葉が浮かぶ。ついさっきもリズムが揃わなかった。
“今”の音を聴かせるということが、こんなにも怖いなんて思ってもみなかった。
それでも──
逃げたくなかった。
ふと、拓と目が合う。
何も言わず、互いにうなずき合った。
「……わかりました。準備します」
◇
部室に戻ると、午後の光が傾き始めていた。
窓から差し込む陽が、スピーカーの角に斜めの影を落としている。
航はギターを手に取り、チューニングを確かめる。
指先はじっとりと汗ばんでいて、ピックが少し滑った。
それでも、手は止めなかった。
陸がベースの弦を低く響かせ、拓が静かにスティックを回す。
明澄がタブレットで録音準備を整えながら、ポケットからイヤモニを取り出す。
「いきます」
拓のカウントに合わせて、音が重なった。
歪んだギター、ベースの低音、ドラムの鋭さ。
明澄の鍵盤が、溶け込むようにリズムの隙間を埋める。
航の声がマイクに乗り、天井へと跳ね返る。
緊張はあった。けれど、その向こうに、音が見えていた。
“合わせる”のではなく、“届かせる”ことに集中するように。
最後のコードが鳴り終わると、部室の空気がひとつ、深く沈んだ。
「──いいね」
優の声は、柔らかかった。
評価というより、実感を込めたひと言だった。
「まだ荒削りだけど、自分たちの音を見つけようとしてるのが伝わってきた。音が真っ直ぐだ」
航の胸の奥に、ふっと小さな空気の通り道ができた気がした。
まだ震えている。けれど、その震えは、何かを始められる前触れのようでもあった。
「今日はね、君たちにお願いがあって来たんだ」
優はアンプの横に腰を下ろし、足を軽く組みながら言葉を続ける。
「今年の夏、商店街の夏祭りが復活する。町おこしの一環だけど、せっかくなら、ちゃんと“音”で町を揺らしてみたくてね。俺がそのステージ演出を任されてる」
「え、それ……例の公園のステージっすか?」
明澄が食いつくように尋ねた。
頷く優に、明澄の目がぱっと明るくなる。
「懐かしいな、あそこで盆踊りとかやってたやつですよね……!」
「そうそう。で、今年はそのメインステージで、和太鼓と現代音楽のコラボレーションをやろうと思ってるんだ」
「和太鼓?」
航が聞き返す。ギターと太鼓、ロックと伝統──なかなか結びつかないイメージだった。
「うん。でも、ただの共演じゃない。できれば、君たち自身にも、太鼓を叩いてもらいたい」
「ぼくらが……太鼓を?」
陸が目を細める。思考の音が聞こえるような沈黙が流れる。
「もちろん、バンドの演奏パートもちゃんとあるよ。そっちは君たちの“いつもの音”で勝負してほしい。でも、太鼓にも加わってもらえたら、ステージ全体が“町の音”として立ち上がる気がするんだ」
「すごいな、それ……!」
明澄が小声で漏らした。
航の横で、拓が軽く腕を組んでいる。
「……太鼓なんて、触ったこともないけどさ。でも、やってみるのは全然アリだよな。オレはおもしろそうって思う」
「……夜に練習って言ってたけど、場所は?」
「商工会議所。町の太鼓保存会が協力してくれることになってる。初回は来週の金曜の夜。基礎から叩き方を教わることになるけど、無理のない範囲で大丈夫」
「……母さん、なんて言うかな……」
航がふと呟く。
「反対されそう?」
優に訊かれ、航はうなずいた。
「……でも、やってみたいと思ってる」
そのひと言に、拓も明澄も陸も、それぞれのやり方で頷いた。
誰も声を上げなかったけれど、その空気は、ひとつの意思を含んでいた。