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第2話

 校舎へ続く海沿いの道は、ちょうど潮が引きかけた時間帯で、岩場がところどころ濡れていた。

 制服の裾が風に揺れ、肩にかけたギターケースが、リズムを刻むように背中を打つ。

 風の中にある湿気は、町全体を包み込んでいて、まるでどこへ行っても逃れられない膜のようだった。


「──おう、航!」


 後ろからスケボーを抱えた拓が駆けてくる。キャップのつばを指で直しながら、陽に焼けた笑顔を向けてきた。


「今度の土日、練習する? 新曲のリフ、考えてきたんだよ」


「……ああ、いいな。母さんがうるさくなければ、な」


 拓は苦笑いを浮かべ、スケボーを肩に担ぎ直した。


「また、進路の話?」


「うん。卒業したら東京行きたいってのにさ。地元の大学に進学しろとか、そんな話ばっか」


「もっと本格的にバンド活動したいって、言ってるんだろ?」


「言ってる。何回も。でも、全然聞いてくれない」


 言いながら、心のどこかで空気が滲んだような感じがした。歩幅が自然とゆるくなる。足元のコンクリートには、風で運ばれた砂が細かく溜まっていて、靴音にしゃり、と音を重ねた。


「でもよ、おれらも本気でプロ目指すなら、もっと腕、上げてかねえとな」


 拓の声は、普段と変わらないように聞こえる。でも、その奥にある微かな真剣さを、航はちゃんとわかっていた。無責任な夢じゃない。ちゃんと叶えようとしている言葉だった。


「……わかってるよ」


 応える声は、少しだけ遅れた。ほんのわずか、追いつけないまま。


 ◇


 軽音楽部の部室は、旧校舎棟の三階。使い込まれたアンプとラックが並び、床にはところどころコードが這っている。


 埃っぽい空気のなかで、扇風機だけが気だるく回っていた。

 だが照明が灯ると、その空間は少しだけ今の時間になる。


 ここでしか鳴らせない音がある──そんな気がしていた。


「ワン、ツー、スリー、フォー!」


 拓のカウントで演奏が始まる。ドラムが小気味よく跳ね、陸のベースが支える。

 航のギターが歪みを乗せて重なり、音の厚みがじわじわと部屋を満たしていく。


 そのなかで、明澄のキーボードが丁寧に音を添える。

 彼はリズムの隙間を見極めるように、鍵盤のタッチを調整していた。軽快で、けれど目立ちすぎず、音の輪郭を縁取るような役割。


 ……しかし、サビの入りで違和感が走った。


 航の右手がわずかに遅れた。ほんの一拍。けれど、当人には痛いほどわかる誤差だった。


 音はそのまま進む。航は止めなかった。

 だが、拓が首を傾げ、スネアを抜いた瞬間、演奏がばらけた。


「──ちょっと止めよう」


 拓の声が部屋に落ちる。

 ドラムが止まり、音がふっと消えた。扇風機の風切り音だけが、妙に大きく響く。


「航、お前の入り、ちょっと遅れてた」


 声は柔らかいが、曖昧さはなかった。


「……わかってる」


 航が視線を落とす。コードを押さえた左手に、微かに力が入っていた。

 苛立ちというより、自分に対するじれったさだった。


「先輩、もしかしてちょっとテンポ早かったっすかね? オレ、もう少し抑え気味にします!」


 明澄がパッと顔を上げて、タブレットを操作しながら声を投げた。

 空気が少し沈んでいるのを感じて、場をほぐそうとしている。

 航の方をちらりと見てから、にかっと笑う。


「いや、でもイントロのキメ、さっきより全然カッコよかったっすよ! ね、澤村先輩もそう思いません?」


「……うん。全体としては、よくなってます」


 陸がベースの弦を指先で押さえながら、落ち着いた声で応じた。


「ただ……航先輩、今日はちょっと入りが不安定な感じでした。あの……無理はされてませんか?」


 言い回しには遠慮が混じっていたが、そのぶん真剣さもにじんでいた。


「別に……大丈夫」


 そのまま黙り込んだ航に、誰も強く問い詰めたりはしなかった。

 ただ、それぞれのやり方で、彼の沈黙に向き合っていた。


 音の中に、会話では足りない感情がある。

 彼らは、それを知っていた。


「合わせ直そう。もう一回、Bメロから入ってみよう」


 拓がスティックを軽く打ち鳴らし、リズムを刻むように膝でカウントを取った。

 航も無言で頷き、再びギターのネックを握り直す。

 陸のベースが静かにうなり、明澄のキーボードが音を探るように鍵盤の上を滑る。


「ワン、ツー、スリー、フォー──」


 今度は噛み合った。

 航のピッキングは芯を取り戻し、リズムがなめらかに絡み合う。

 音が部室の中でひとつにまとまっていく感覚。息が揃いはじめた。


 ──ああ、やっと入ってきた。

 そう思った、その瞬間だった。


「すみませーん、軽音部の人いますかー!」


 ドア越しに、やや上ずった声が飛び込んできた。

 音の波が、一瞬で崩れた。


 拓がドラムの音を止め、明澄がキーボードから手を離す。

 航はピックを握ったまま顔を上げた。

 扉が少し開き、見慣れない男子生徒が顔を覗かせていた。

 明澄のクラスメイトのようだった。たしか、他の部活の。


「職員室から伝言です。卒業生の人が来てて……森田先生が、軽音部代表に会いたいって」


「卒業生?」


 拓が眉をひそめ、航と目を合わせる。

 さっきまで集中していた空気が、音もなく抜けていく。


「……わかった。ありがとう」


 航は立ち上がり、ギターをアンプからそっと外す。

 せっかく掴みかけた何かが、手のひらからするりと抜けていくような感覚だけが、胸の奥に残っていた。


 ◇


  職員室の前で足を止めた。中から話し声が漏れてきて、ドアのガラス越しに見える顧問・森田の姿が、どこかいつもより落ち着きなく見えた。

 拓が無言で頷く。航も仕方なくノブを回した。


「失礼します──軽音部です」


 声が少し裏返った。森田がこちらに気づき、椅子を回して立ち上がる。

 その隣には、見慣れない男がいた。黒いジャケットにスニーカー。バッグのストラップには、音符のチャームが揺れていた。


「来たね。紹介しよう。君たちに話した卒業生の大川優さんだ。今は東京で音楽関係の仕事をしてる」


 東京で──その言葉に、航の心がかすかに波打った。


「はじめまして、大川です。よろしく」


 柔らかく差し出された手。握り返すと、思っていたより温かくて、しっかりとした握力があった。

 手のひらの質感が、そのまま“現実”の重さのように感じられた。


「せっかくだし、君たちの音を聴かせてくれないか」


 そのひと言に、航の胸の奥に、ゆっくりと冷たい波が広がっていく。

 練習不足。真っ先に、その言葉が浮かぶ。ついさっきもリズムが揃わなかった。

 “今”の音を聴かせるということが、こんなにも怖いなんて思ってもみなかった。


 それでも──

 逃げたくなかった。


 ふと、拓と目が合う。

 何も言わず、互いにうなずき合った。


「……わかりました。準備します」



 部室に戻ると、午後の光が傾き始めていた。

 窓から差し込む陽が、スピーカーの角に斜めの影を落としている。


 航はギターを手に取り、チューニングを確かめる。

 指先はじっとりと汗ばんでいて、ピックが少し滑った。

 それでも、手は止めなかった。


 陸がベースの弦を低く響かせ、拓が静かにスティックを回す。

 明澄がタブレットで録音準備を整えながら、ポケットからイヤモニを取り出す。


「いきます」


 拓のカウントに合わせて、音が重なった。


 歪んだギター、ベースの低音、ドラムの鋭さ。

 明澄の鍵盤が、溶け込むようにリズムの隙間を埋める。


 航の声がマイクに乗り、天井へと跳ね返る。


 緊張はあった。けれど、その向こうに、音が見えていた。

 “合わせる”のではなく、“届かせる”ことに集中するように。


 最後のコードが鳴り終わると、部室の空気がひとつ、深く沈んだ。


「──いいね」


 優の声は、柔らかかった。

 評価というより、実感を込めたひと言だった。


「まだ荒削りだけど、自分たちの音を見つけようとしてるのが伝わってきた。音が真っ直ぐだ」


 航の胸の奥に、ふっと小さな空気の通り道ができた気がした。

 まだ震えている。けれど、その震えは、何かを始められる前触れのようでもあった。


「今日はね、君たちにお願いがあって来たんだ」


 優はアンプの横に腰を下ろし、足を軽く組みながら言葉を続ける。


「今年の夏、商店街の夏祭りが復活する。町おこしの一環だけど、せっかくなら、ちゃんと“音”で町を揺らしてみたくてね。俺がそのステージ演出を任されてる」


「え、それ……例の公園のステージっすか?」


 明澄が食いつくように尋ねた。

 頷く優に、明澄の目がぱっと明るくなる。


「懐かしいな、あそこで盆踊りとかやってたやつですよね……!」


「そうそう。で、今年はそのメインステージで、和太鼓と現代音楽のコラボレーションをやろうと思ってるんだ」


「和太鼓?」


 航が聞き返す。ギターと太鼓、ロックと伝統──なかなか結びつかないイメージだった。


「うん。でも、ただの共演じゃない。できれば、君たち自身にも、太鼓を叩いてもらいたい」


「ぼくらが……太鼓を?」


 陸が目を細める。思考の音が聞こえるような沈黙が流れる。


「もちろん、バンドの演奏パートもちゃんとあるよ。そっちは君たちの“いつもの音”で勝負してほしい。でも、太鼓にも加わってもらえたら、ステージ全体が“町の音”として立ち上がる気がするんだ」


 「すごいな、それ……!」


 明澄が小声で漏らした。

 航の横で、拓が軽く腕を組んでいる。


 「……太鼓なんて、触ったこともないけどさ。でも、やってみるのは全然アリだよな。オレはおもしろそうって思う」


「……夜に練習って言ってたけど、場所は?」


「商工会議所。町の太鼓保存会が協力してくれることになってる。初回は来週の金曜の夜。基礎から叩き方を教わることになるけど、無理のない範囲で大丈夫」


「……母さん、なんて言うかな……」


 航がふと呟く。


「反対されそう?」


 優に訊かれ、航はうなずいた。


「……でも、やってみたいと思ってる」


 そのひと言に、拓も明澄も陸も、それぞれのやり方で頷いた。

 誰も声を上げなかったけれど、その空気は、ひとつの意思を含んでいた。


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