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第8話

 王都の昼下がり、市場通りに立ち込めていた魚臭さが、最近になって少し薄れた気がした。


 ティナは詩帳を抱えながら、香水屋の角で立ち止まり、深く息を吸い込んだ。


「……うん。今日の空気はまだまし。」


 かつて、ナマズコラーゲン蒸しやナマズエキスパックが流行っていた頃、このあたりの露店は魚臭と香草の混じった凄まじい空気だった。それが今は──。


「おう、ミーナお嬢さん。」


 振り返れば、笑いを含んだ声で語りかけてきたのは、顔見知りの乾物商人だった。


 「最近ナマズ出す店、減ったろ? どうやら“効果なかった”って噂が流れたらしいぜ。いやあ、女の美への執念ってのは本当に怖ぇな……美容じゃなくて“実験”だったとか言い出す奴までいてさ。どこまでホントやら。」


「……なるほど、鼻が曲がる前に終わってよかったわ。」


 ティナは肩をすくめる。だがそのすぐあと、背後からため息が聞こえた。


 「はぁ……“ナマズグリルのフルコース”……またいつか食べたかったのに……。」


 振り向けば、うなだれるミーナの姿。手にはお気に入りのナマズ料理屋の回数券。


 「……それ、本気で通う気だったの?」


 「香ばしいのにふわっとしてて、独特の香辛料と合うのよ。……こんな終わり方、理不尽だわ。セレスも喜んでたのに。」


 ティナが言葉を失う中、商人が苦笑いする。


 「けど、元はと言えば“薬師長の新薬実験にナマズ使う”って話が変なふうに曲がっただけらしいぜ。募集してたんだってよ、ナマズ。見た目と“健康に効くかも”で、勝手に美容説が暴走したんだろ。」


 「……根っこが実験だったなら、美容なんて効果がある方が不思議ね。」


 ティナがぽつりと呟き、ミーナはもう一度、深いため息をついた。


 「せめて、美味しいって評価だけでも残ってほしかった……。」


 こうして、ナマズ美容ブームは静かに終焉を迎えた。




 王都の西通り、いつも賑やかだった食堂街は、どこか静けさを帯びていた。


 セレスは一軒目の食堂の前で足を止め、黒板の「本日のおすすめ」からナマズの名前が消えているのを見つけて、口を尖らせた。


 「……グリルも、蒸しも、揚げも、全部なし。なんでよー。香草焼き、まだ食べてないのに。」


 二軒目も三軒目も似たような状況だった。仕方なく、彼女は屋台通りをぶらつきながら、耳を澄ませる。


 すると、ある屋台の奥から──。


 「……あたし聞いたんだけど、あの側妃さま? ナマズ美容じゃなくて、指輪を飲み込んだナマズ探してるんですってよ。」


 「指輪? まあ側妃ってもお高いものだろうしねぇ……?」


「そうそう、ほんとはそっちが本命で、美容だなんだは煙盗まれないようにするための嘘だったらしいよ。」


 「それで美容が流行って探してるナマズが見つからなったら本末転倒だわね。」


セレスの目がきらりと光る。


 (指輪を飲んだナマズ……?美容は嘘ってことは嘘の火消しに追われてる?)


 さらに屋台の別の客が囁くように冗談を飛ばしていた。


 「そりゃ、しゃべるナマズが王族の宝石を飲み込んで逃げたなら、一攫千金だな! 見つけたら英雄だぞ、マジで。」


 「まーた酔っ払いの話よ。けど、誰も否定しないのが怖いわね。」


 セレスは少し笑って、食堂裏の通用口へと回り込んだ。そこには既にクラリスが待っていた。


 「セレス。例の“しゃべる”ナマズ、やっぱりペットだった説が浮上してる。しかも“逃げた”とか、“宝を飲んだ”とか、妙な尾ひれついてる。」


 「こっちでも聞いたわ。指輪の話、しかも側妃の指輪。完全にパニックよ。美容ブームはもう“うそでした”ってことで火消しされてるけど……代わりにヘンな希望が広がってる。」


クラリスはため息をつき、屋根からぽたりと落ちてきたツバメの羽を拾った。


「しばらくは、“しゃべるナマズ”が“財宝の番人”にされて、別の意味で人気になるかもね。」


「それならまたしばらくはナマズ料理だべれそうね?」


にやりと笑うセレスの顔に、クラリスは微笑で応えた。


「ナマズはもういいよぉ。」



 ──「混ぜるな危険」は、胃の中で起きていた。


 王都南部の交易所。商人たちの喧騒の中、ミーナは一人、帳簿と伝票の束に目を通していた。

 四ヶ所の商会の運営する香辛料専門店に出入りする運び屋のルートを、丁寧に赤鉛筆でなぞる。


 「……薬草と香辛料、別々に仕入れてるのに、同じ料理人のもとに届いてる。しかも……変だわ。季節外れのレッドスパイスが大量に流れてるの、理由がない。一部の貴族階級だけでこんなに長期で?」


 ミーナの視線が鋭くなる。手元の地図にメモを付けながら、呟く。


 「流通の末端が“調理用”のほかに、“試験調合用”……やっぱり、何か混ぜてる?」


 一方そのころ、王立図書院の地下。閲覧には特別許可が必要な“薬物危険辞典”の棚に、シャーロットの姿があった。


 彼女は「調理由来の事故」の章をめくり、ある記述に目を留める。


 『胃内酵素により作用する、非致死性毒物。香辛料Aと薬草Bをそれぞれ摂取し、数時間後に混ざり合うことで作用を開始。症状の発現はおよそ一晩後。味覚での識別は不可』


 「……これは、まさしく上で最近流行りの“カリー”とそのトッピング……。」


 シャーロットは震える指先でページを閉じ、記憶していた料理人の名前を確認する。


 ──そしてその日の夕方。


 王都の小さな茶館の裏庭で、ミーナとシャーロットはこっそり顔を合わせた。


 「シャーロット、それ、本当に毒なの?」


 「ええ。しかも“遅効性”。症状が出るのは食べた数時間後。誰も“料理”が原因だとは思わない。」


 「……やっぱり、流通もおかしかった。一部の料理人だけに届けられてる組み合わせ、意図的よ。しかも教師級元は第三側妃の実家絡み。」


 二人は無言で頷き合った。


 「おそらく“誰か”が、知らないうちに毒を仕込んでる。普通の料理に、見せかけて」


 「そして、それを食べてるのは……王族。」


 どちらともなく口にしたその仮説に、背筋がひやりと冷えた。


 シャーロットは鞄から一冊の薄い冊子を取り出し、ミーナに渡す。


 「証拠になるかは分からない。でも、“混ぜるな危険”のこの組み合わせ、記録としてとってきた。出典元とページに記載内容。」


 「上出来上出来~。さすがシャーロット姉さま!これが本当なら──もう遊びじゃ済まないわね。」


王都の風が、茶館の裏庭を通り抜けていった。




──「健康にいい」その言葉ほど、都合のいい盾はない。


王都貴族の夜会。豪奢なシャンデリアの下、社交界の若き令嬢たちがグラス片手に微笑み合う。

その輪の中で、アデレードは笑顔を絶やさず、さりげなく水を向けた。


「最近、王家の晩餐って妙に香りが強いって聞くけれど……料理人が変わったのかしら?」


 「まあアデレード様、それがですね」と声を上げたのは、王城付きの侍女を姉に持つ伯爵令嬢。


 「今、王家で流行ってるのは“カリー”らしいの。薬師長様が勧めてるらしくて、なんでも“体にいい”とかで──。それ専用の料理人まで入れて秘伝スパイスで作ってるらしいわ。そこにトッピングの薬草を乗せるんですて。」


 別の子爵令嬢が続ける。


 「そうそう、美肌向けの“紅根草+赤いスパイス”とか、気力回復用に“銀の実と黒葉のペースト”とか。ほら、どれも薬草でしょ? 健康にいいって聞くと、みんな飛びつくのよ。」


 「私はあの組み合わせ、ちょっと苦手。薬っぽいし、辛さが変に残るのよね……。」と肩をすくめる子もいれば、


 「私は好きよ。こう……体の芯が温まる感じ。薬草って感じがするのが、むしろ効いてる気がして。」


 アデレードは内心で眉をひそめつつ、優雅に微笑みを返す。


「まあ、今は何でも“効能”が求められる時代なのね。」


 グラスの中の葡萄酒を一口含みながら、ふと背筋が冷えた。──すべて、クラリスがギルドで「異様に増えている」と言っていた薬草の名前だった。




 ──言葉と刺繍に託した想いは、果たして真っ直ぐ届くのか。


 ティナが訪れた手芸店は、朝から大賑わいだった。棚から刺繍糸がなくなり、ビーズは飛ぶように売れている。リボンや留め具も追加発注待ちだという。


 「また“あれ”ですか?」と顔なじみの店主が苦笑する。


 「ええ、例の……あの残念な詩に乗せる、あれです。」


 “あれ”とは──少し前、王宮関係者の若手令嬢の間で密かに流行り始めた、“恋ミサンガ”。内容はこうだ:


「意中の殿方に贈る刺繍入りミサンガ。その糸には詩に詠んだあだ名を密かに縫い込むこと。」


 いつの時代も恋する乙女におまじないは欠かせないらしい。問題は、その詩──もとい“あだ名”にあった。


 「“鉄面の彫像”“動かざる三日月”“木の棒と化した朝顔”……これは、誉めてるのかしら?」


 とミーナは本屋で眉をひそめる。


 「……そう、誉めてるつもりなのよ。心象の比喩、らしいわ。」


 とティナが呻くように答えた。

もともと、このムーブメントのきっかけは、ティナが王宮関係者から一度だけ受けたなその作詞から始まった。語彙力を疑う恋詩”──皮肉めいた流行狙いのものだったのだが、なぜかそこだけ妙にウケた。


 焙煎獅子がなんでこんなことに。


 そして今、本屋ではその影響で「微妙語彙を用いた恋文の作法」「おしゃれ比喩100選」といった指南書が飛ぶように売れ、“絶妙な残念詩集”コーナーが常設されている始末。吟遊詩人の間でも「あれは皮肉なのか?マジなのか?」と物議を醸し、「詩の品格が地に落ちた」とため息をつく者まで出始めていた。


 その頃──。


 街では、剣帯にカラフルなミサンガを結びつけて歩く若き騎士たちの姿がちらほら見られた。中には両脇に3本ずつ、計6本をつけて意気揚々と歩いている者も。


 「“砂漠の迷子犬”とか刺繍されてたってのに……本人、感激してたらしいわよ……。」


 ミーナは呆れ顔。ティナは額を押さえながら呻いた。


 「もう……どうしてあの詩がバズったの……私、比喩のセンスが消えていきそう……。」


 「でも、騎士たちは素直だよね。自分のこと言ってるなんて気づいてないのかも……。」


 「悲しいことに、それが一番の救いかもしれないわ……。」


 そんな恋の暴走劇は、静かに、しかし着実に──王宮の片隅にも忍び寄っていた。



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