荘厳な王宮の大理石の法廷に、重々しい鐘の音が響き渡る。壇上には裁判長をはじめ、王家の顧問官、そして王直属の高官たちがずらりと並んでいた。壁には王国の紋章が金箔で浮かび上がり、空気は張り詰めている。
傍聴席には、選ばれし貴族たちが上質な礼服に身を包み、優雅に座していた。だが彼らの表情は――どこか余裕に満ちていた。
なぜなら。
「証拠となる“ナマズ”は、すでに処分された」
と、彼らは思い込んでいたからだ。
だがそのとき、場に微かなざわめきが走る。扉の奥から現れたのは、場違いな娘。そして――彼女が抱えている異様な【何か】
クラリス・エルメロワ。ギルドの受付嬢にして、今日の重要証人。
その腕には、異常に派手なバケツ。ショッキングピンクのボディに、きらきらと輝く装飾リボン。蓋の取っ手には、子供が結んだらしい赤い蝶結び。
傍聴席がざわめき出す。
「……なんだ、あの証人は?」
「遊び場と勘違いしているのか……?」
クラリスは重々しい空気に気圧されつつ、内心で深いため息をついた。
(……心底、猛烈に、帰りたい。)
このバケツは、子供組――ノエル、フィオナ、セレスによる渾身の“おめかし”である。
「これがルルの正装!」とキラキラ笑っていた三人の顔が、まぶたにちらつく。
(今さら引き返せない……。)
証言台へと歩を進める彼女に、裁判官が問いかける。
「……証人、クラリス・エルメロワ。証言を」
クラリスは一礼し、覚悟を決めて――バケツの蓋を、すっと開けた。
中から――。
「え、え〜〜〜、わたしが証言するんですかあ〜〜? いやですねぇ……こういうの、怖〜い話になるんですよぉ……。」
しゃべるナマズが、ぬるんと顔を出した。
法廷、騒然。
「しゃ、喋った!?」
「いや、今……ナマズが……?」
壇上の裁判官たちすら、目をしばたたかせる。証人席の近くに控えていた秘書官が、おそるおそる裁判長の耳元にささやく。
「証人は……ナマズ、のようです。」
「……確認済みだ。続けさせろ。」
「……あれはねェ、夜だったんですヨ……月も出てない、闇の中……水路の底でプカプカしてたらね……聞こえたんですよォ……“あの人”の声が……。」
ルルの語る「あの人」。それは、第三側妃のことだった。
「“毒の量はごくわずかでいい。体に馴染ませれば、誰にも気づかれません”ってねェ……言ったんですよぉ……いやぁ〜、ゾッとしますねぇ……。」
貴族たちの表情が、凍りついた。
「まさか……そんな……。」
「毒、だと……?」
「でね、“計画書は燃やしておけ”って、その人、言ったんですよ。でもね、落としたんです、バシャーンって。で、わたし……うっかり飲んじゃった♡」
その瞬間、法廷中に走る絶句。
クラリスは額を押さえた。
(ここまでシュールな展開になるとは思ってなかった……。)
「いやぁ〜、わたしねェ、別に悪気はなかったんですけど……拾い食いって、やめられないですよねェ〜。証拠隠滅とか言われたら、ちょっとねェ……。」
大人たちはぽかんとするばかりだった。
裁判官は一度深く目を閉じ、そして開いた。
「……本件について、証人“ルル殿”の証言は、極めて重大な意味を持つと判断する。」
法廷の空気は、ルルの稲〇淳二風の怪談口調で凍りついたままだった。
【第三側妃による毒殺未遂の目撃証言】
それが、ピンクのバケツに入ったナマズの口から語られたというだけで、すでにこの場は“異常”の一言に尽きる。
「いやぁ、こわいですねぇ……人ってのはね、裏の顔があるもんで……ふふっ……。」
その低く湿った声が、法廷の石壁に不気味な余韻を残す。傍聴席のあちこちで、誰かが小さく咳払いし、椅子をわずかにきしませた。
緊張と混乱が入り混じり、誰も次に何が起きるかを想像できずにいた。そんな中、クラリスが証言台で静かに口を開いた。
「……以上が、このナマズ……ルルの証言です」
小さくうなずき、次の瞬間、クラリスの瞳が鋭くなる。
「そして――これから、証拠物を提出します。」
ざわっ、と法廷にざわめきが走った。
「証拠物……だと?」
「まさか、本当に……あるのか?」
クラリスは一歩前に出て、静かに言った。
「ルルのお腹の中には、“毒入りの小瓶”と、“計画書を丸めた羊皮紙”が入っています。それを――今ここで取り出します。」
沈黙。空気が、凍りついた。
そして裁判官が、絞り出すような声で問い返した。
「……ま、まさか、今ここで“捌く”というのか?」
「はい。立会いのもと、明確に証拠として取り出します。……ライオネルさん。」
その名を呼ぶと、傍聴席脇から――ライオネルが現れた。 彼の手には、場違いなほど輝く“出刃包丁”。左手には木製のまな板と桶。さらに、丁寧に包まれた医療器具一式まで抱えていた。
……完璧すぎる準備だった。
「何をするつもりだ、この騎士は!?」
「いま捌くって、あの魚をか!?」
「いや、ここは……裁判所だぞ!?」
貴族たちがざわめき、ある者は口元を押さえ、ある者は席を立とうとして衛兵に止められる。
だが――クラリスは微動だにしない。
彼女はまっすぐにルルを見下ろし、目を合わせた。
「や、やるんですね!? ほんとに……ここでぇ!? 見世物ですよコレぇ……もうね、冷や汗と血が混じったら、すごい味になるんですよ……こわいですねぇ……。」
「……大丈夫。ちゃんと、元に戻すから。信じて。」
クラリスの低く、まっすぐな言葉に、ルルは一瞬だけ口を閉ざす。
その大きな目が、ゆっくり瞬きした。
「……じゃあ……なるべく、怖くない感じでお願いします……ね?」
ライオネルがすばやく動いた。
証言台にまな板を設置し、白布を広げる。クラリスは静かに手袋をはめる。彼らの所作には無駄が一切なかった。
法廷が、沈黙する。
──まさかこんなにも神聖で荘厳な場所で、
一匹のナマズを開腹して証拠を取り出すなど、誰が想像しただろう。剣戟でも政治劇でもない、“料理”による決着。刃がわずかに光り、クラリスの手が動き始めた。
その瞬間――。
「ひっ」と悲鳴を上げて、貴族のひとりが椅子から転げ落ちた。
遠くの席で、子爵夫人がハンカチを噛んで顔を背ける。
裁判長の右隣にいた書記官が、口元を引きつらせながら震える手で記録を書き続ける。
ライオネルが静かに呟く。
「……まさか法廷でナマズの解体ショーをする羽目になるとは……。」
「いやぁ〜……やめてぇぇ……怖いぃぃ……でも、これが正義ってやつなんですよねぇ……。」
クラリスが、心を無にして刃を入れた。
手元を見ずに、小声で呟く。
「……麻酔、間に合わなくてごめんね」
「ほぎゃぁあああああああ!!」
その叫びが、法廷の天井にこだました瞬間。
全員が――この国の司法史上最も“胃の痛くなる裁判”を目撃した。
やがて――血のにじまない、精密な切開ののち、クラリスの手に握られたのは、濡れた羊皮紙と黒い小瓶。クラリスはそれを布に包み、裁判長へと差し出した。
「……こちらが、“第三側妃による国王毒殺未遂”の証拠です。」
裁判長は震える手でそれを受け取ると、言った。
「……この裁判を、再開廷とする。証拠提出をもって、審問を続行する……」
そして、静まり返った法廷に再び――。
「う〜〜〜〜〜ん……生きてますかねぇ……これ……。こわいなぁ。こわいなぁ。」
震える声が、バケツの中から響いた。