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第8話 嘘つきな笑顔

 黄昏時。

 かれ時――誰が誰だかわからなくなる、不思議な時間。

 昼と夜の境界が滲み、世界の輪郭がやわらかくほどけてゆく。


 空は、茜から朱、そして群青へと、ゆるやかにその衣を重ねていた。

 太陽は地平線に身を横たえ、最後の光で世界を染め上げながら、静かに姿を消し始めている。

 眩しく鮮烈な黄色が、瞼の裏に焼きついた。


 木々は風にそよぎ、長く伸びた影を地に引いて。

 鳥たちは鳴き交わしながら巣へと帰っていく。

 一日の終わりを、森が、空が、生き物たちが、静かに告げていた。


 パンドラは大きく息を吸い込み、吐き出す。

 その息には言葉にはできない、名前のない重みがこもっていた。


 この場所。大聖堂の裏庭。

 唯一、自分をほぐしてくれる空間。

 選ばれし献身者セリアンという名の仮面を、一瞬だけ外せる、束の間の逃げ場。


「……アムル。居るんでしょう?」


 ぽつりと、風に紛れるように呟く。

 ほんの少しの間があって、茂みの向こうに、気配が揺れた。


 それは、あまりに頼りない気配。

 けれど、パンドラにはすぐにわかった。

 この時間にここへ来る子は、ひとりしかいない。


 振り返って、パンドラは微笑む。


 最後の陽光がゆらゆらと揺らめく中、アムルが姿を現す。

 僅かに逡巡があったように感じる。

 その輪郭は、滲むように、躊躇ためらいがちに、静かにそこに現れた。


 アムルは手を上げることもなく、ただ立っていた。

 眩しそうに目を細めたまま、パンドラを見つめる。


 太陽を背に立つパンドラの顔は影になり、表情まではアムルには見えないはずだった。

 ──見えなければいいと、パンドラは思っていた。


「……また、来ちゃった」


 小さな声。風にかき消されてしまいそうなほど。


「叱られるわよ。今度こそ、バレちゃうかも」


 パンドラは柔らかく笑って応じる。

 それは咎めるのではなく、やさしい警告。

 アムルは目を伏せて、小さく頷く。


「うん。でも……会いたかったから」


 ふたりの間に、音のない時間が流れる。

 張り詰めるような緊張感ではなく。

 けれどどこか逼迫ひっぱくした感覚があって。


 アムルは目を瞬いた。

 涙が零れそうだったのを、無理矢理に押し込める。


(泣いちゃだめ)


 きっと、泣きたいのはパンドラの方だから。


 陽が完全に沈んだ。

 最後のきらめきだけを残して、世界は闇の深みへと傾いていく。

 まるで空気そのものが、夜に飲まれていくようだった。


 大聖堂の高窓に灯がともる。

 ひとつ、またひとつ、穏やかな光が闇を照らしていく。


 その光に照らされ、パンドラの輪郭が淡く浮かび上がった。

 白い法衣が、彼女の存在を聖域の一部のように見せていた。


 そして──彼女は微笑んだ。


「嬉しいわ、アムル」


 その笑みは、美しかった。

 どこまでも穏やかで、優しく、澄んでいて。

 完璧だった。


 けれど──それは、あまりにも完璧すぎた。

 教本の中に描かれた選ばれし献身者セリアンそのままの、理想の笑み。


 聖なるものの浮かべる表情。

 生なるものの、浮かべ得ない表情。


(……ほんとに?)


 アムルはそう呟きそうになって、唇を噛む。

 声にはできなかった。

 問い掛ければ、何かが壊れてしまう気がした。


 視線を外さず、睨み付けるようにパンドラを見つめながらも、アムルの顔は今にも泣き出しそうに歪んでいた。


(それで、いいの?)


 問い掛けたくて。

 けれど、その言葉は喉の奥で凍りつき、出てこなかった。


 パンドラは、微笑を崩さない。

 その表情の奥に、何を隠しているのか、それとも彼女の心そのままなのか。

 誰にもわからない。


 アムルは、ほんの少しだけ視線を落とし、それでも、せめて名前だけでも、と願うように呟いた。


「……パンドラ」


 それは祈りに似ていた。


 けれどパンドラは、その名を受け止めるように、ただ静かに微笑を湛えて。

 応えなかった。


 そして。

 夜のとばりは、静かに降りた。



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