大聖堂を後にしたアムルは、誰にも見つからないように身を潜めながら、夜の
夜はすでに深く、世界は眠りに沈みつつある。
群青の空には雲ひとつなく、まるで水面に浮かぶように、澄んだ月がぽっかりと浮かんでいた。
ひんやりとした空気が肌を撫でる。
それは夜の静けさというより、何かが潜むような緊張を孕んでいた。
なるべく足音を立てまいと注意して歩いているのに、石畳を踏むたび、靴音が塔の中に深く響いた。
ひとつひとつの音が、まるで自分の存在を告げる鐘のようで。
アムルは無意識のうちに呼吸を浅くしていた。
記憶を辿るように、アムルは本棚の狭間を縫って進む。
やがて辿り着いたのは、あの机――
そして、
その本は、変わらず開かれたまま、何かを告げるように静かに佇んでいた。
――題名のない本。
生命の
存在してはならないはずの書だった。
(……また、ここに)
アムルの胸がひやりと冷たくなる。
確かにあの時、本棚に戻したはずだった。
あれは幻ではない。
自分の記憶に間違いはない。
それでも、こうして再び開かれた状態で。
まるで「読むことを許された」ようにアムルを待っていた。
置かれていた――そう表現するには、何かが違う。
これは、自らの意志でここに在るとしか、思えなかった。
ぞくりとする確信が、アムルの背筋を這う。
本が、アムルを選んだ。
読まれるべき者として、名を与えられぬ書は、再び彼女の前に姿を現した。
逃げようと思えば、逃げられたのかもしれない。
けれどアムルの足は、もうその場に縫いつけられたように、動かなかった。
――それが運命だと告げるように。
震える指で、そっとページを捲る。
ざらついた紙の感触が、妙に現実的で、かえって夢の中にいるようだ。
そこに記されているのは、
アムルの読み解けない文字が大半を占める。
……なのに。
なぜか、わかる。
読めない。けれど、理解できる。
文字が意味を成すのではなく、意味そのものが直接、頭の奥に流れ込んでくる感覚。
「……命に名は無く、与えられるは形のみ」
いつの間にか、アムルは声に出していた。
その声が、自分のものとは思えないほど静かで、かすかに震えていた。
読み進めているはずなのに、目は文字を追っていない。
文字という概念すら飛び越え、情報は直接に意識へと染み込んでくる。
浸食。
そんなことを頭の片隅で思ったかもしれない。
思考も、理性も、何もかもを置き去りにして。
アムルは止まらない。
祝福とは、誰のためにあるのか。
その意味、その起源、その本質。
知らされてはならない真実が、ぽたり、ぽたりとアムルの中に落ちていく。
それは毒のようであり、蜜のようでもあった。
心の奥底に、熱が灯る。
微かで小さい、けれどそれは確かに灯火だった。
小さな蝋燭の火。
けれど、とても強く、決して消えない。
読み進めるたび、アムルの世界が揺らいでいく。
何かが軋む音がした。
それまで信じていた常識だったのかもしれないし、世界そのものだったのかもしれない。
(これを、受け入れて、いいの――?)
まだ声には出せない。
だって、いいわけがない。
エクレシア・ヴィヴァルボルムの教えに反するどころか――
(反逆だ)
世界への、反逆。
教えに背き、祝福を否定し、世界の意思に逆らう。
拒絶とも恐怖ともつかぬ感情がアムルを押し包んだ。
それでも、目を逸らせなかった。
逸らせばすべて元通り。
知らなかった自分に戻れる?
答は否。
知ってしまったら。
知らなかった頃には、戻れない。
知らないままだったなら、幸せだっただろうか。
頭の片隅でそんなことを思う。
けれど。 アムルは
最初の一歩を、既に踏み出してしまっていた。
それが道なき道であることすら、知らないままに。