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第7話 世論の誘導

 魔王襲来。


 狙われたのは、嘆きの地――シナヴェル砂漠に置かれた神殿であった。

 燃え上がる炎が夜空を赤く染め、祈りの地は業火によって灰燼に帰した。

 聖域守護の結界は無惨にも破られ、魔王はその奥に鎮座していた水神サリアニスの神像を――冒涜し、蹂躙し、踏みにじった。

 彼の地は、今や悲嘆の嗚咽と血の気配に包まれている。

 魔王は闇夜の混乱の中、悠然と姿を消したという。

 残されたのは、焼け焦げた神殿跡と、数多の命を奪われた信徒たちの遺骸。

 その被害は極めて甚大であり、民心にも深い傷を残した。

 我ら、エレクシア・ヴィアヴォルムは、この蛮行を断じて看過せぬ。

 盟友ユグド=ミレニオとの連携を強化し、魔王討伐の準備を加速させる。

 これはただの報復ではない。

 神聖の回復であり、人々の誇りと祈りを取り戻すための戦いである。



 その一件を伝える瓦版ビラは、舞い飛ぶように売れ、王都エラリオン聖都アルセリアも今や魔王の噂で持ち切りである。


 だが、実際のところ――

 炎の台座モルカリーノの在りし場所に神殿など存在しない。

 ましてや襲撃による被害など、全く確認されていない。

 にもかかわらず、惨憺さんたんたる情景が強調された瓦版ビラは、民の不安を巧みに煽り立てていた。

 ヴィヴァ教団は秩序の守護者としての立場を誇示し、己の正当性を高らかに謳い上げた。

 至聖導師の名のもとに――。


 神に等しき権威の言葉を、人々が疑うことはなかった。


 至聖導師グランダルコンイアサント。

 かつての導師アルコンイアサントは、今や教団の頂点に立つ存在である。

 だが、その座は与えられたものではない。

 掴み取ったのだ。

 手を血に染め、影の中を這いずって。

 ――前至聖導師を断罪し、その身を自らの手で刺し貫いた日。

 それは表向きには“教義に反した導師への正しき断罪”として記録された。


「異端は排除せねばならぬ。

 呪われし力マレフォルティアを拒絶せよ。

 それは生命の大樹ヴィヴァルボルの、すなわち世界の意思である」


 イアサントは一切の躊躇なく刃を振るい、鮮血に染まった手で宣言したのだ。

「真の秩序のために」と。


 聖都アルセリア。その心臓部でさえ、陰謀と策略が渦巻く。

 イアサントは、それを知り抜いていた。

 いや、むしろ――誰よりもそれを使いた。


 表向きは教義に忠実な導師。

 しかし実際の彼は、生命の大樹ヴィヴァルボルの真実すらもとして捉えている。


 イアサントは果実を回す指を止め、微かに笑った。

 林檎――それは知恵と堕落、そして選択の象徴。

 アムルが魔王として舞台に上がったことも、計算の内だ。

 すべては、この世界を「正しき秩序」に導くため。


「動き出したか、小娘」


 その声に含まれるのは、軽蔑でも怒りでもない。

 ある種の期待と、娯楽に似た興味だった。

 自らの計画の駒が、想定を超えて独自の動きを見せる瞬間。

 それをイアサントは、心底愉しんでいた。


 アムルには、魔王としてもうひと働きしてもらう。


 反逆の象徴として、憎悪の的として――教団の正義を際立たせるために。

 そして、その果てに導かれる結末すら、彼の掌の中にあると信じていた。

 世界のために。ヴィヴァ教団のために。

 そして、何よりも――イアサント自身のために。


「見事に踊って見せるがいい」


 林檎を放り上げ、空中で受け止める。

 その掌に落ちた冷たい果実は、まるでこれから訪れる運命そのもののようだった。




 アムルはそれを知ることもなく――

 ただ愚直に、次の台座を目指していた。


 次の目的地は、学問都市ルミナヴェルダの街外れ。

 そこにはひっそりと佇む小さな修道院がある。

 知と探求を司る選択の台座アラフィオーロが、そこにあるはずだ。

 そう炎の台座モルカリーノが告げた。

 というよりは、台座の意思が脳裏に割り込んで来たのだ。

 しかもご丁寧に、地図に印までも焼き付けてくれた。

 至れり尽くせりである。


「お礼を言うべきなのかしら」


 世界の憎悪を一身に背負うこととなった少女アムル。

 それでも怯むことなく、立ち止まることなく。

 ただ、親友を取り戻すために。

 ひとり、前へと進んでいた。




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