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第10話 風は応える

 風が強い。

 アムルは枯草色に染まった丘を、ゆっくりと登っていた。

 足許には夏の名残を抱いた、乾いた草がざわめき、風に身を任せて舞い上がっては地に還る。


 今は次の台座への旅の途中。

 次の台座からの応えは、まだない。

 おそらくは、まだ、アムルは、そこに至る準備が整っていない――

 という台座の意志表示なのだろう。


 幾度いくたび、風となって世界を廻ろうと、台座の在るとおぼしき場所を探っても――

何の反応も無い。

 台座たちは、まるで深い眠りに落ちたかのように、完全なる沈黙を貫いていた。


 不意に冷たい風が音を立ててアムルの横を強く、吹き抜けた。

 アムルは抵抗せず、そのまま風に身を委ねる。

 外套が風をはらみ、ふわりと浮かび上がるように揺れた。


 束の間の浮遊感。

 風になったときの感覚とは、また一味違う。


 風は、様々な香りを運んで来る。


 乾いた麦藁の香りが、収穫の終わった畑から漂い、落ち葉は湿った土に混じり、微かに甘く優しい匂いを放っている。

 収穫祭の準備だろう。村のあちこちに干された香草類が爽やかに、甘く。

 葡萄や林檎の搾りかすが干され、酒や酢の刺激が柔らかく、空に広がっていく。


 風は景色を、記憶を、暮らしを運ぶもの。


 アムルは目を開けた。


 丘の上には、風雨に晒され、くたびれた感じの小さな石造りの祠。

 彫像の顔はもはや、判別のつかないほどに風化していた。

 誰をかたどっていたのか。あるいは誰でもなかったのだろうか。


 祠はただそこに在り続けていた。

 静かに。

 けれど、確かに。


 祠には、老婆がひとり。

 年季の入った外套に身を包み、小さな湯気の立つ茶壷を手にして。

 石段に腰を下ろしていた。


「おや、珍しい。旅人さんかね」

「こんにちは、おばあさん」


「はい、こんにちは。ここにお参りに来るひとが、あたし以外に居るとはね。ふふ、珍しいことだよ」

「ここは、誰の祠なんですか?」


「さあ? 昔の聖人さまの誰かだって話だけど、名前まではもう誰も知らんよ。でもね、誰でもいいのさ。こうして村を見守ってくださってるんだから」

「……そうですね」


 アムルは祠の前に静かに跪いた。

 手を組み、目を閉じる。

 それはアムルに深く染み付いた祈りの仕草だ。

 老婆は頷いて、笑う。


「信心深いのはいいことだよ。若いのに、感心だねえ」

「……いいえ」


 短く返したアムルの声には、謙遜とも諦めともつかない、どこか寂しい響きがあった。

 その声に誘われるように、老婆はふと、空を見上げた。


「そういえば、最近ね、子供たちが、なんか妙な歌を口遊んでいてねえ」

「歌、ですか」


 アムルが少し、小首を傾げた。

 風が止む。落ち葉がひとひら、石段を滑り降りていく。


「そう。聴いたこともない歌なんだけど、知っているような気もして……。なんか変でねえ」

「聞かせて貰えますか?」


 老婆は微笑んで頷くと、それを口遊くちずさむ。



「いちどだけ こたえたこえ

 ふたつめは こたえずきえた

 みっつめは ねむったまま

 よっつめは いのったけれど

 いつつめは わすれたまま

 ひとつ こたえを おぼえてる?」



 アムルは目を瞬いた。

 一言一句が、胸の中に落ちて来るようだった。


「奇妙な唄だろう? どこで覚えたのか、誰に教わったのか……。あたしも何度か訊いてみたんだけど、子供たち、みんな揃ってこう言うんだよ」


 老婆は祠の奥を見つめながら、ぽつりと言った。


「風が歌ってくれた、ってね」

「風が……」


 アムルは歌を口遊む。


「一度だけ、応えた声。

 二つ目は応えず消えた。

 三つ目は眠ったまま。

 四つ目は祈ったけれど……。

 五つ目は忘れたまま」


 最初の台座、炎の台座モルカリーノはアムルに応えた。

 答えて、自ら壊れてみせた。

 二つ目の台座は選択の台座アラフィオーロ

 答は「此処に在らず」と拒絶された。

 三つめはこれから向かう台座だろうか。

 まだ、眠ったままの、見知らぬ台座。

 四つ目は祈っても届かない。つまりは沈黙。

 沈黙と影を司る、忘却の台座リメンターロ

 五つ目、忘れたまま。つまりは――忘却そのもの。


「ひとつ こたえを おぼえてる?」


 その一節が、アムルの耳の奥で木霊こだまのように響いた瞬間――

 ずきり、と頭の芯に鋭い痛みが走った。

 小さな、だが針のように鋭く刺し込まれる痛み。

 記憶を抉るような、名もなき問いの残響。


 アムルは歯を食い縛るようにして、その痛みに耐えた。

 何故だか一瞬、反省室のペンティニア像が脳裏をよぎった。


 ペンティニア。

 人の罪や迷いを受け止め、沈黙の中に己の内なる真実を聴かせる神。

 忘却の台座リメンターロは、沈黙と影を司る。

 ならばやはり、ペンティニアに属しているのだろうか。


「おばあさん、ありがとうございます」


 アムルが深く一礼すると、老婆は穏やかに笑った。


「うん? 役に立ったのかい? なら、よかった」


 ペンティニアにゆかりの地。

 それは「ヴェルナリオ修道院跡」に他ならない。

 かつて罪人の更生と祈りの場として機能したが、今は廃墟となり、長い沈黙に包まれているという。


 アムルは、ゆっくりと顔を上げる。

 次に向かうべき場所が、決まった。

 そこで、きっと。

 忘却の台座リメンターロが待っている。


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