風が強い。
アムルは枯草色に染まった丘を、ゆっくりと登っていた。
足許には夏の名残を抱いた、乾いた草が
今は次の台座への旅の途中。
次の台座からの応えは、まだない。
おそらくは、まだ、アムルは、そこに至る準備が整っていない――
という台座の意志表示なのだろう。
何の反応も無い。
台座たちは、まるで深い眠りに落ちたかのように、完全なる沈黙を貫いていた。
不意に冷たい風が音を立ててアムルの横を強く、吹き抜けた。
アムルは抵抗せず、そのまま風に身を委ねる。
外套が風をはらみ、ふわりと浮かび上がるように揺れた。
束の間の浮遊感。
風になったときの感覚とは、また一味違う。
風は、様々な香りを運んで来る。
乾いた麦藁の香りが、収穫の終わった畑から漂い、落ち葉は湿った土に混じり、微かに甘く優しい匂いを放っている。
収穫祭の準備だろう。村のあちこちに干された香草類が爽やかに、甘く。
葡萄や林檎の搾りかすが干され、酒や酢の刺激が柔らかく、空に広がっていく。
風は景色を、記憶を、暮らしを運ぶもの。
アムルは目を開けた。
丘の上には、風雨に晒され、くたびれた感じの小さな石造りの祠。
彫像の顔はもはや、判別のつかないほどに風化していた。
誰を
祠はただそこに在り続けていた。
静かに。
けれど、確かに。
祠には、老婆がひとり。
年季の入った外套に身を包み、小さな湯気の立つ茶壷を手にして。
石段に腰を下ろしていた。
「おや、珍しい。旅人さんかね」
「こんにちは、おばあさん」
「はい、こんにちは。ここにお参りに来るひとが、あたし以外に居るとはね。ふふ、珍しいことだよ」
「ここは、誰の祠なんですか?」
「さあ? 昔の聖人さまの誰かだって話だけど、名前まではもう誰も知らんよ。でもね、誰でもいいのさ。こうして村を見守ってくださってるんだから」
「……そうですね」
アムルは祠の前に静かに跪いた。
手を組み、目を閉じる。
それはアムルに深く染み付いた祈りの仕草だ。
老婆は頷いて、笑う。
「信心深いのはいいことだよ。若いのに、感心だねえ」
「……いいえ」
短く返したアムルの声には、謙遜とも諦めともつかない、どこか寂しい響きがあった。
その声に誘われるように、老婆はふと、空を見上げた。
「そういえば、最近ね、子供たちが、なんか妙な歌を口遊んでいてねえ」
「歌、ですか」
アムルが少し、小首を傾げた。
風が止む。落ち葉がひとひら、石段を滑り降りていく。
「そう。聴いたこともない歌なんだけど、知っているような気もして……。なんか変でねえ」
「聞かせて貰えますか?」
老婆は微笑んで頷くと、それを
「いちどだけ こたえたこえ
ふたつめは こたえずきえた
みっつめは ねむったまま
よっつめは いのったけれど
いつつめは わすれたまま
ひとつ こたえを おぼえてる?」
アムルは目を瞬いた。
一言一句が、胸の中に落ちて来るようだった。
「奇妙な唄だろう? どこで覚えたのか、誰に教わったのか……。あたしも何度か訊いてみたんだけど、子供たち、みんな揃ってこう言うんだよ」
老婆は祠の奥を見つめながら、ぽつりと言った。
「風が歌ってくれた、ってね」
「風が……」
アムルは歌を口遊む。
「一度だけ、応えた声。
二つ目は応えず消えた。
三つ目は眠ったまま。
四つ目は祈ったけれど……。
五つ目は忘れたまま」
最初の台座、
答えて、自ら壊れてみせた。
二つ目の台座は
答は「此処に在らず」と拒絶された。
三つめはこれから向かう台座だろうか。
まだ、眠ったままの、見知らぬ台座。
四つ目は祈っても届かない。つまりは沈黙。
沈黙と影を司る、
五つ目、忘れたまま。つまりは――忘却そのもの。
「ひとつ こたえを おぼえてる?」
その一節が、アムルの耳の奥で
ずきり、と頭の芯に鋭い痛みが走った。
小さな、だが針のように鋭く刺し込まれる痛み。
記憶を抉るような、名もなき問いの残響。
アムルは歯を食い縛るようにして、その痛みに耐えた。
何故だか一瞬、反省室のペンティニア像が脳裏をよぎった。
ペンティニア。
人の罪や迷いを受け止め、沈黙の中に己の内なる真実を聴かせる神。
ならばやはり、ペンティニアに属しているのだろうか。
「おばあさん、ありがとうございます」
アムルが深く一礼すると、老婆は穏やかに笑った。
「うん? 役に立ったのかい? なら、よかった」
ペンティニアにゆかりの地。
それは「ヴェルナリオ修道院跡」に他ならない。
かつて罪人の更生と祈りの場として機能したが、今は廃墟となり、長い沈黙に包まれているという。
アムルは、ゆっくりと顔を上げる。
次に向かうべき場所が、決まった。
そこで、きっと。