ヴェルナリオ修道院跡。
建設されたのは遥か昔のことである。
罪と迷いを浄化する神――ペンティニアへの信仰が、最も盛んだった時代だ。
ここは主に、告解者や啓示を待つ巡礼者たちが、身を清める為に滞在した場所であり、信徒たちは一切の会話を禁じ、日々「沈黙」と「祈り」を捧げていたと言われている。
また、罪人の更生の場としても機能していた。
しかし、時代が進むにつれ、神の象徴であった「沈黙」は、次第に不気味なものとして忌避され始めた。そして信仰は衰退していく……。
最後の院長が忽然と姿を消し、修道士たちの記録もすべて、失われたそうだ。
その後、近隣の村人たちはこの地をこう呼ぶようになった。
「夢を喰らう場所」
「忘れられた聖所」
今や伝承では、声を発する者は迷いの霧に包まれ二度と戻れぬ、と伝えられ、誰も近付こうとはしない場所でもある。
(ひとりごともダメなのかしら)
くだらないことを考えながら、アムルはヴェルナリオ修道院跡を歩いていた。
石造りの回廊。崩れたアーチ。蔦に覆われた窓枠。
(白い、世界)
建材はほとんどが白い石だった。
足音が微かに反響する無人の礼拝堂も、破れた祈祷書が散らばっている部屋も。
机も、椅子も……。どこも、白い埃がうっすらと雪のように積もっていて。
ひどく静かな景色だった。
無音であるというだけでなく、空気が静謐だった。
廃墟として残る建物部分には、台座らしきものの姿は無い。
残るは、地下か――未踏の空間が、そこにある。
アムルは指先に光を点すと、ゆっくりと階段を降り始めた。
白く積もる埃に、足跡が点々と残っていく。
念のため、アムルは呪文すら口にはしない。
ペンティニアに対する礼儀のような気持ちもあった。
階段を踏むたび、靴底にあたる石の感触は硬く、冷たい。
一歩ごとに冷気が増していく気がする。頬を撫でるそれに、胸がざわついた。
(声を発すれば、戻れない……)
果たして、それはただの伝承か。それとも偽りなく真実なのか。
確かめてみる気はアムルには無い。
長い階段を降りた先に、かなりの広さの円形の空間があった。
そして中央に。
素っ気ない台座がぽつんと鎮座している。
装飾は一切ない。
材質は陶器のようにも、石のようにも見える。
滑らかでつるりとした肌は真白。それは冷たく静かな美しさを湛えている。
(これが
アムルが警戒しつつ近付くと、その台座はゆっくりと、
円柱のような胴体に、両腕のようなものが生えている。
奇妙な形の
ふわり、と白く埃が舞う。
それともそれは台座が発した霧なのだろうか。
台座相手におかしな話だが、まるで
一瞬、それはかつて人間だったのではないかと思わせるような、そんな気配。
なんとなく、アムルも会釈を返す。
そして台座は声を発した。
正確に言うならば、空気を震わせたのではなく、頭の中に直接語り掛けてきた。
――汝、名を捨てる覚悟はあるか
――誰にも思い出されなくなる未来を、受け入れる覚悟は、あるか
アムルは眉を寄せた。
誰からも忘れられ、思い出してすらもらえない。
誰の心にも、存在の痕跡さえ残さずに消えていく未来。
それは――
(辛いでしょうね)
でもね、
たとえ世界中の誰に忘れられても。
たとえ誰一人として、思い出してすらくれなくても。
わたしという存在が消えてしまっても――
(世界中に憎まれるよりは、楽かもしれないわね)
アムルは皮肉な笑みを浮かべ、
(今のわたしは、魔王アムルよ)
それは執念といえるだろう。
深く思い込み、片時も忘れない、願い。
何のために
何のためにわたしは今、生きているのか。
そんなの、決まっている。
――取り戻したいからだ。
パンドラを取り戻すためならば、なんだってする。
できるうることをすべて。
忘れられたいわけでは無い。
忘れられることを悲しく思わないわけでは無い。
ただ、それよりももっと、大事なことがある。
それだけだ。
台座は頷いたように見えた。
そして。
アムルの視線の先で、台座は音もなく、さらさらと崩れ去った。
まるでここには、最初から何も存在していなかったかのように。
ただ、