目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

第2話 贈与の台座

 そこは風の無い空間だった。

 無音。


 耳がおかしくなりそうだった。


 少し前に対峙した、忘却の台座リメンターロの白い空間とはまた違う。

 けれどこの場もやはり「白」ではあった。


 音もなく、色もなく、ただそこに「それ」が在る。


 表現するならば、球体。

 中空に浮く、丸い存在。


 贈与の台座ネメルターロ


 名を告げられた瞬間から、アムルは感じていた。

 これは、ただ触れて通り過ぎるものではない。

 それ自体が、問いであり、扉であり、試練そのものなのだと。


 台座は無言だった。


 だが、その存在はアムルの奥深くへと、静かに染み込んでくる。

 言葉よりも確かなもの――記憶に触れる指先のような感覚。

 不快ではない。けれど心地良いものでもない。

 一言で表すならば「違和感」だろうか。


 ふいに、景色が変わった。



 アムルは見慣れた場所――学び舎ヴィラリアに立っていた。


 木漏れ日が差し、子供たちの笑い声が響く、ありふれた午後の空気。

 そして、その風景の中心に――パンドラがいた。


 笑っていた。


 柔らかな金髪が光を弾いて、赤いリボンを揺らして。

 楽し気に。

 まるで何も知らぬ子どものように。


(……知ってる。これは、過去)


 祝福の儀ベネディスコの後のこと。

 パンドラと出会った日。

 彼女が初めて名前を呼んでくれた日。

 アムルの中にしか存在しない、宝石のように煌めく時間。


 家族は最初からいなかった。孤児院でもいつも一人。

 祈ることしか教えて貰わなかった。

 毎日淡々と過ぎていく日々。ただ、起きて、祈って、眠って。

 生きることとはその繰り返しだった。


 それが、この日、色彩を得た。

 躊躇いのないきらめく笑顔。エメラルドのように輝く眸。


 やわらかく、優しい笑顔。


「ねえ、わたしたち、お友達になりましょうよ」


 そう言って差し出してくれた手を、少し躊躇いながら、けれどしっかりと――握ったあの日。



 眩しいその光景に、異物が入り込む。

 忘却の台座リメンターロの「声」だ。


「返却を許す」

「しかし、記憶を持ち帰ることは、許さぬ」


 そこに感情は無かった。

 それはただの宣言だった。


 宿っていたのは、圧倒的な意志。


 アムルは、動けなかった。

 走り回るパンドラの背を追いかけたい。

 名を呼びたい。


 だが、声は形にならなかった。


 まるで、自分がこの世界からような錯覚が襲い掛かる。


(私は……)


 両手を握る。

 震える身体を支えるように、心の奥底で問う。


(それでも、いい?)


 パンドラを取り戻せる。

 だが、自分という存在は、彼女の記憶から消える。

「アムル」という名は、彼女の人生から欠け落ちる。

 その代償は、アムルにとって途轍もなく大きい。


 ――けれど。


 忘却の台座リメンターロにも、既に宣言した。

 アムルはもう、覚悟を決めている。


(パンドラが生きて、笑ってくれるなら)

(わたしは、わたしができることをなんだって、する)


 涙が頬を伝う。

 これは悲しみではない。

 ただ、想う心が溢れて、零れてしまうだけ。


(わたしは、あのとき、そう決めたんだから)


 その瞬間、球体――贈与の台座ネメルターロの内部から光があふれ出した。


 鮮やかな赤みがかった黄色。マリーゴールドのような、強く明るい光。

 やがてそれは天に向かって伸び、祈りの柱を成した。


 贈与の台座ネメルターロは応えた。

 記憶は対価として捧げられた、のだろう。


 それをアムルに確かめるすべはないけれど。


 パンドラの魂が、生命の大樹ヴィヴァルボルの内側で、確かに揺らぎ始めた。


 それは小さな始まり。

 だが確実に。

 何かが変わり始めていた。


 アムルは、ゆっくりと崩れ落ちるように、その場に膝をついた。

 胸の奥が、酷く静かだった。


(パンドラ――生きて。どうか、幸せに)


 涙がぽろぽろと頬を伝って零れていく。

 心の奥は凪いでいた。静かだった。

 それでも身体は反応するのだな、とどこか他人事のように思った。



 歌が、降り注ぐ。

 小さな光が花弁のように、舞い降りる。


 プレケリアの記憶が共鳴したのだろう。

 かつての「交魂の祈り」が歌としてよみがえる。


 古代語なのか、神聖語なのか。

 アムルにはわからなかった。


 けれど。

 やわらかく、やさしく、つつみこむような。

 その歌はいつまでも、アムルに降り注いでいた。


 アムルが立ち上がれるようになるまで。

 いつまでも。




この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?