ロイクはシナヴェル砂漠に居た。
長い旅路であった。
道中さまざまなことがあった。
人助けに、討伐の手伝い、大歓迎の宴……本当に色々あった。
そして今ようやく、当初の目的だった南方に辿り着いた。
水神サリアニスの嘆きの地。
かつてこの地には七つの泉が湧き出していたという。
しかし、人の傲慢と裏切りが、サリアニスを深く傷付け、水神は、涙を流しながら、すべての水を地の底へ沈めた。
今も風が吹く夜は、サリアニスの泣き声が聞こえるという曰く付きの砂漠だ。
ここで数か月前、天を
近くの村からもよく見え、夜が昼になるほどの明るさに、世界の終わりかと、怯える者も多かったそうだ。
更に、エレクシア・ヴィアヴォルムよりの
魔王襲来。
狙われたのは、嘆きの地――シナヴェル砂漠に置かれた神殿であった。
燃え上がる炎が夜空を赤く染め、祈りの地は業火によって灰燼に帰した。
聖域守護の結界は無惨にも破られ、魔王はその奥に鎮座していた水神サリアニスの神像を――冒涜し、蹂躙し、踏みにじった。
彼の地は、今や悲嘆の嗚咽と血の気配に包まれている。
魔王は闇夜の混乱の中、悠然と姿を消したという。
残されたのは、焼け焦げた神殿跡と、数多の命を奪われた信徒たちの遺骸。
その被害は極めて甚大であり、民心にも深い傷を残した。
我ら、エレクシア・ヴィアヴォルムは、この蛮行を断じて看過せぬ。
盟友ユグド=ミレニオとの連携を強化し、魔王討伐の準備を加速させる。
これはただの報復ではない。
神聖の回復であり、人々の誇りと祈りを取り戻すための戦いである。
なんとも物々しい文面。
恐怖を煽るかのような文句に、村々は怯え切っていた。
そんな中、この地に勇者が調査に訪れたと聞き、村人たちは諸手を挙げて歓迎した。
そして、あの日以来、砂嵐がただの一度もないのだということも教えてくれた。
「だから、却って不気味だよ」
ロイクの案内を務めた少年、クルスは小首を傾げた。
「火柱が上がったのは、たぶんこの辺なんだけど……」
彼は辺りを見回す。
何の変哲もない、砂漠。
風が静かに模様を刻んでいく、穏やかな景色。
「この辺に神殿があったとか、知らなかったからびっくりした。
それに、みんな、魔王に殺されちゃったって……」
ぶるりと肩を震わせたクルスは、けれど、首を傾げてみせた。
「でも……何だか、空気が綺麗な気がするよね」
「うん。俺もそう思う」
ロイクは頷いた。
「殺戮が行われた場所にしては、怨念が無い。
淀んだ空気や、腐臭とか、そういうものがあるはずなんだけどな」
砂漠だからというわけでは無いだろう。
瓦礫ひとつ、亡骸ひとつ、見つからないのはおかしい。
亡骸を喰らいに来るであろう獣の気配すら、無い。
「行き倒れたと思われる動物の骨は、見掛けたのにな。
人がいっぱい殺されたって割りには、なんか――。
清められたって方が、しっくりくる」
砂が掃き清めたのだろうか。
風が運び去ったのだろうか。
少し掘り返してみれば、何か出てくるかもしれないが……。
思案するロイクの横で、クルスはきょろきょろと辺りを見回した。
「ねえ、勇者さん。なんか、水の音しない?」
「砂漠で水音もなにも……いや、するな」
それは確かに水音だった。
二人は首を捻りつつ、音のする方へ向かい――立ち
そこに有ったのは紛れもなく、泉。
ロイクは眉を寄せた。
「サリアニスが、すべての泉を地の底深く、沈めたんだよな?」
クルスも自身無さげに頷く。
「そう。おかげで全然オアシスとかもない……はずなんだけど」
言葉尻はすぼんで消える。不可解だった。
泉に手を伸ばしたロイクは、それが幻でないとすぐに理解した。
冷たく、澄んで、心地よい水――まぎれもなく、清水だった。
「ミルタルガの花が咲いてるから、きれいな水なのは間違いない」
「ミルタルガ?」
ロイクは水面を指差した。
「あの白くて小さい花。清流にしか咲かないんだ。
ついでに葉や茎は食べると美味いぞ」
「勇者さんよく知ってるね」
「俺の村の辺りじゃ割と見掛けるからな」
ロイクは水面を見つめた。
透き通るほどに澄んだ水。風に揺れるミルタルガの群生。
耳に届くのは水音だけ。
サリアニスの嘆く声も、砂嵐も、そこにはない。
(劫火に焼かれた地が、これか……?)
ロイクは眉を
どうにも腑に落ちない。
魔王が浄化などするはずがない。
それが魔王。
世界の敵である。