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第7話 祈りのカタチ

 ロイクは宿の一室で、寝台ベッドに身を投げ出していた。

 夜風は窓帳カーテンを微かに揺らしている。

 天井をぼんやりみつめながら、彼は今までの旅路を思い返していた。


 通り過ぎてきた街や村――そこに生きる人々の表情、声、想いを思い返す。

 少なくとも、ロイクの目に映った限りでは、悲嘆に沈む者の姿は見当たらなかった。

 絶望に呑まれ、立ち上がれぬほど打ちひしがれた人間は、ひとりとして居なかったように思う。


 瓦版ビラに書かれた「破壊」と「死」の痕跡を、ロイクは一度として目にしてはいない。

 血塗られた街も、燃え尽きた神殿も、泣き叫ぶ民の姿も、焦土の臭いも。

 そこには無かった。

 生き残った怪我人にすら、ひとりも出会わなかった。


 それどころか、どの地でも感じたのは「静けさ」だった。

 空気は澄み渡り、まるで何かが洗い流された後のように感じられた。


 シナヴェル砂漠。

 嘆きの地と呼ばれる、荒れた土地。

 止まぬ筈の砂嵐が止み、水神サリアニスの嘆きの地に泉が戻った。

 ミルタルガの花が群生して、咲いた。


 ルミナヴェルダ。

 かつて魔王に汚されたとされる書物に、新たな一文が現れた。

「まて、しかして希望せよ」

 筆致は同じ。しかしインクの色が僅かに違うかもしれない。

 まるで何者かがそっと、未来への鍵を差し込んだように映った。


 各地で起きた「奇跡」のような現象の報告は、もはや数えきれないほどに多く寄せられている。


 枯れた土地に咲く花々。

 旱魃の続く谷に思いがけず降る雨。

 寝たきりの老人が「歌を聞いた」と起き上がる。

 誰かが空に歌い、我知らず口遊くちずさむ。

 誰かが誰かを想い涙する、不思議な共鳴。


 世界に何か、変化が起きているのは確かだった。


 そして「歌」だ。


 誰が教えたわけでもない旋律が、子供の口から、吟遊詩人の咽喉から零れ出す。

 風の中から現れては、消えていく。

 高らかにではなく、童謡や子守歌に似た、素朴な調べ。

 けれど耳にする度に、絡まったものがなんとなくほぐれていくような、妙な感覚におそわれる。


 ロイクは天井を仰いだ。


 伝えられる情報と、自分の目にした光景との乖離に感じる違和感は、もはや拭えないくらいに大きい。


 ヴィヴァ教団の語る「災厄」は、いったいどこにあるのだろう。


 シュゼットの言葉を受けて、ロイクの中でアムルへの見方が変わり始めていた。

 もはや彼女を「魔王」とは思えなかった。


 ヴィヴァ教団の言葉は、形を失い始めている。

 もはや、気付かぬ振りすらできはしないくらいに、それは明らかだった。


 剣を携え、使命を胸に、世界のために――

 魔王を追っていたはずなのに。

 気付けば誰かの祈りを追い掛けているような、そんな気がしてくる。


「……あー、くそ」


 ロイクは組んだ腕を目の上に置いた。

 視界が暗くなるほどに、心の中の問いは明瞭になっていく。


「魔王」とは何だ。

「祈り」とは何だ。

「勇者」とは――何だ。


 誰が敵で、誰が味方なのか。

 正義は誰が定め、悪は誰が指差すのか。


 今のロイクにはわからない。


 夜が深まっていく。

 微かに開いた窓帳カーテンの隙間から、空が見える。

 青が藍に深まり、さらに濃さを増す。

 端の方から徐々に、墨のような黒に塗り潰されていくようだ。

 細やかに瞬く小さな星々が、撒き散らされたように、輝く。

 灯をともさぬ部屋が、月明りにだけ、仄々と照らされて。

 世界が深い眠りに落ちていくような、重たい静寂が満ちてくる。



「俺が戦うべき相手って、本当に……居るのか?」



 誰も、聖剣さえも教えてはくれない。


 けれど、その問いだけが、ロイクの中に確かに響き続けている。



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