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第3話 空白の歌

 知らない歌――

 なのに、なぜか懐かしい。

 パンドラはその歌を、知らず知らずのうちに小さく口遊くちずさんでいた。


「夜空に響くが歌は、君なき世界に君想う。

 心に残りし君の笑み、届かぬ想い風に溶け。

 探しても、届かずとも。君を想う心は変わらず。


 月夜に捧ぐが祈り。消えし言葉を辿りゆく。

 心に残る温もりを、甦らせて空に願う。

 過去を知り、今を赦し。君を待つわれは変わらず」


 誰が歌っていたのだろう。


 誰のものなのか、思い出せもしないのに……。

 パンドラは涙が零れ落ちるのを、止められなかった。


 拭っても拭っても、止まらない。

 仕舞いには笑いが零れてきた。自分でも意味がわからない。


(何も覚えていないのに、身体は覚えているんだわ)


 パンドラはしゃくり上げるようにして、泣きながら、笑った。

 失ってしまったことが悲しくて仕方が無いのだと、心は、身体は、繰り返し訴える。


 ふと、掌に何か握っていた気がした。

 それは目にも鮮やかな、黄金色の果実。


 パンドラは目を瞬く。


 次の瞬間には、果実は跡形もなく消えていた。

 それでも、掌には確かに残る温もりがあった。


「黄金の、林檎……?」


 それは何か、大切なものの名残だった。




 至聖導師グランダルコンイアサントは、静かな苛立ちを抱えていた。

 極秘扱いとしていたはずの案件――

 帰還せし献身者エルセリオンの存在が、じわじわと聖都に広まりつつある。


(緘口令を敷かなかったのは、軽率だったか)


 それが「噂」となった瞬間、もはや制御は不可能になる。


 イアサントは椅子に深く腰を預け、指を組み、顎を乗せた。

 目を閉じて、深く、思考に沈む。


(急いては事を仕損じる。だが、間もなく限界だ)


 パンドラの幽閉は前倒しにせねばならぬ。

 あの存在の求心力は、想定をはるかに上回っていた。


 イアサントは「神の言葉を伝える者」に過ぎない。

 だが帰還せし献身者エルセリオンは――

 と見なされる。


 生命の大樹ヴィヴァルボルより地上に遣わされた、唯一の「帰還者」。

 その姿は、人々にとって信仰の化身となる危険がある。


(それは、我らの秩序を崩す火種だ)


 最も恐ろしいのは、その信仰が芽吹いているという事実だった。


 それはもはや、教団によって信仰ではない。

 制度の外から、芽吹いてしまった純粋な、祈り。


 それが炎となって燃え広がれば――

 教義も、権威も、構造も、あっけなく呑まれていく。


「秩序を――乱してはならぬのだ」


 イアサントの声は低く、静かだった。

 けれど、その奥底では確かな焦燥が渦巻いていた。

 それは、祈りへの恐怖だった。




 至聖導師グランダルコンイアサントが求めるもの――

 それは「魂の輪廻と救済の安定」であった。

 生命の大樹ヴィヴァルボルの秩序を保ち、魂を迷わせることなく、冥界ネクソムへと導く構造。

 そのために捧げられる献身の儀デヴォタリア――

 選ばれし献身者セリアンの自己犠牲は、世界の平衡バランスを維持するために「必要な代償」とされていた。

 イアサントにとって秩序とは「魂が苦しむことなく、定められた運命に従っていく構造」――

 表向きにはそう語られていた。


 しかし、その実、イアサントの行動原理は異なっていた。

 本質的に彼が欲していたのは、「選ばれた者によることわりの支配」である。


 ことわりは、神の名を借り、選別された、「許された祈り」と「従うべき順序」の体系であり、それ以外の介入を「異端」と見做みなす。


 たとえばプレケリア――

「言葉を持たぬ祈り」や「個人の問い掛け」は、彼にとって危険で、許されざるものであった。

 理由は単純だ。

 自由意志や感情に基づく祈り、感情の発露による介入は、世界の構造を

 それは、不確定な動き、制御できぬ影響――つまりは「秩序の脅威」なのだ。


 イアサントは信じている。

 真実の祈りよりも「定型化された服従こそが正しい」のだと。

 管理され、型にはめられた祈りこそが、世界にとって安全で従順で――

 それこそが、人々の為の「平穏」なのだ、と。


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