部屋の隅に置かれた果物籠に視線を向ける。
そこには、真紅の林檎が一つ、静かに鎮座していた。
(ヴェルダントの象徴、ね……)
溜め息を吐きながら。
ロイクは着々と準備を進めていた。
ユグド=ミレニオ王国の王都、エルセリアへの帰還である。
聖都に滞在している王国騎士団と共に、街道を
大聖堂に設えられた部屋で荷物を纏めながら、ロイクは毒づいた。
(何が凱旋行進だ。俺は何もしちゃいない)
――ええ、そうですね。
聖剣も同意するが、それがまた
ロイクはぐしゃぐしゃと髪を掻き乱した。
パンドラは戻ってきた。
けれど、そこに「アムル」はいなかった。
世界は何事もなかったかのようにパンドラを讃え、全てを祝福で塗り潰した。
(何も知らない奴らが、
(「魔王」が消えた? 世界が「安定」した?)
(代わりに
誰も、知らない。忘れてしまった。
世界に塗り潰されてしまった。
俺は、忘れてやらない、とロイクは強く思った。
それは強い憤りだった。
(おまえともお別れか。短い付き合いだったが)
――何を言っているんですか。私をどこに預けるつもりなのです。
(聖剣の神殿じゃないのか?)
聖剣が憤慨したように鳴動する。
窓ガラスが割れそうだ。
「おわっ、落ち着け! 何怒ってる!」
――貴方を選んだのは女神ヴェルダントです。貴方のその命尽きるまで、共に在るのが私の宿命。逃げられるなどと思わぬように。
(おまえ、ヴェルダントの作だったのか。銘は?)
――私の銘など、どうでも宜しい。
聖剣はぴしゃりと言い放った。
女神ヴェルダント――
緑母神ヴェルダント、と呼ばれることも多い。
至聖神ルミエルの姉妹神であり、生命の育みと再生の守護神でもある。
役割は
そして輪廻と循環の神性を体現する。
生者と死者の通過点に立ち会い、魂の根源へと導く役割を担う女神だ。
象徴は林檎。あるいはすべての果実。地母神的な祈りの対象でもある。
(そうかよ。で、ヴェルダントは何で俺を選んだ。何をさせたい)
――貴方は、何を成したいのですか。
聖剣の反問に、ロイクはたじろいだ。
静かで、重い問い掛けだった。
(何……って、)
勇者の役目は終わったはずだ。
魔王討伐こそがその役割。魔王が消えた今、勇者は必要ない。
だが――
(俺にはまだ、できることがあるのか)
群青色の眸に強い決意を煌かせ、ロイクは問う。
聖剣は満足そうに、ひとつ、鳴動した。
――貴方が、それを望むのであれば。
聖剣は淡い光に包まれ、ふわりと中空に浮かんだ。
ロイクは、感心を通り越して呆れてしまった。
「……おまえ、何でもできるのな」
――できることだけです。できないことはできません。
「そりゃそうだ。……で?」
――あなたが望むのなら、アムルができなかったことを、成せるでしょう。
無論、簡単ではありませんが、と付け加えるのを忘れない。
「何が、できる。この俺に」
聖剣は静かにそれを、囁いた。
――世界の
聖剣の輝きが増す。
空間が、ほんの僅かに「裂ける」ような音がした。
――あなたが本当に、彼女を、
その光は部屋の空気さえ変えるほどに澄んでいて――
時空の境界を、かすかに揺らしていた。
波打つように。
あるいは幕が
ロイクは言葉を失う。
世界を書き換える――
それは比喩ではなく、現実の手段であることを、彼はこの瞬間、知った。
時空は、川のように流れているのだと思っていた。
一筋の大河が、時の始まりから果てへと続くのだと――そう、信じていた。
だが、聖剣は語る。
「それはひとつの錯覚です。
真実の時の流れは、常に分岐し、絡み合い、交差します」
分岐点は、幾つもの支流のように溢れ出ている。
そこからまた枝分かれし、やがて再び交わり、あるいは消えてゆく。
「貴方の声が、どの流れに届くか――それを定めるのは、貴方の意志です」
ロイクは息を呑んだ。
時の川に問いを投げる。
その波紋が、彼女のいた場所に届くことを、ただ祈りながら。