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第5話 塗り潰された記憶

 理力の火のともされたランプ

 その灯の揺れる光が、古びた文書の山に不規則な影を落としていた。


 ロイクの前に座る女性――白衣者カンドレルシュゼットは、かつて聖都アルセリアで、パンドラに仕えていた者だ。

 追放同然に辺境へと左遷されていた。しかし、何故か突然聖都へと呼び戻された。


 かつて、アムルが居た世界で、ロイクに魔王誕生の真実を語った人物である。

 前至聖導師の死は、魔王によるものとのだと伝えたのが彼女だった。

 だが、彼女までもが忘れている。


「貴方は、覚えているのですか」


 大聖堂地下にある文書局。

 書棚が、まるで詰め込まれるように配置されている。

 古びた記録の黴臭い感じと、真新しいインクの匂いのする文書とが積み重なる。

 その薄暗く閉ざされた空間で、シュゼットは眉をひそめ、低い声で尋ねた。


「魔王……その存在を、名を、姿を。貴方の記憶にはいるのですか?」


 ロイクは静かに頷いた。


「私の記憶には、どうしてもとしか言いようのない部分があるのです。あの儀式の日、私は誰よりも彼女の近くに居たはずなのに、肝心の瞬間が思い出せません」


 シュゼットの記憶は、白く塗り直されていた。


「世界を維持し、支えたのは選ばれし献身者セリアンパンドラ。魔王は勇者に討たれ、世界は救われた。そして、パンドラは帰還した。そう記されている」


 公式文書を手にしながら、シュゼットは釈然としない表情でかぶりを振った。

 そこにあるのは、ただの歴史の形式に過ぎなかった。


「――ですが、それは本当に正しいのでしょうか? 繋がりが、何かおかしいのです。魔王が現れたのがいつで、討たれたのがいつなのか、どうしても齟齬が発生する。なのに、記録上は何一つ。検証しようとすると、何かにされる気がするのです」


 ロイクは、腰にいた聖剣の柄を握り締めた。


(世界が、アムルを――

 ――その通りです。


 ロイクにしか聞こえない声で、聖剣が応えた。


(誰が消したんだ? 大樹か? 神か? それとも別の……何かか)

 ――答えられません。


 聖剣は静かにひとつ、鳴動した。


(知らないってことか?)

 ――いいえ。


 聖剣は静かに淡々と、続けた。


 ――私はその問いに答えられるように


 ロイクの呼吸が一瞬、乱れた。

 その冷たさに、心の奥が凍り付くように思えた。


 聖剣の応えは、真実以上に無慈悲であった。


 ロイクは沈黙し、長く息を吸い、吐いた。

 心を落ち着ける必要があった。


(――それでも)


 ロイクは聖剣の柄を強く握り、問い掛ける。


 ただの人間であっても。

 世界を書き換えた存在について、知る権利さえ無くても。

 それでも。


?)


 聖剣の返答は淡々としたものだった。


 ――その通りです。


 ――貴方は、適格者ですから。






 ロイクは、明後日には聖都ここを発ち、王都エルセリアへの凱旋行進パレードを遂行しなければならない身だ。

 何しろ、魔王を倒した勇者なのだから。


(その前に、決行する)


 時空跳躍。

 アムルが魔王となる前の時空に、跳ぶ。

 分岐点の前からなら、やり直せるはずだ。


 ――良い判断です。聖なる台座ヴィヴァルターロには、プレケリアの痕跡が色濃く残っています。つまり、台座は魔王を記憶しています。


(そこから辿れるってことか?)

 ――水流を遡ることを想像してください。それが一番近い感覚かと思われます。


(なるほど)

 ――目印があれば、もっと良かったのですが。


(目印?)

 ――アムルの身に付けていたものや、大切にしていた記憶、想い。そのようなものです。


 ロイクは歎息たんそくした。


(あるわけがない)

 ――ですね。貴方の強い意志のみが、しるべとなります。気合を入れてください。


(……時空跳躍って気合でどうにかなるのか?)

 ――何事も気合です。想いこそが世界を形作っているのです。


 ロイクは目を閉じ、深く息を吸った。

 心の奥底に沈んでいた「願い」が、音もなく浮かび上がる。


(もう一度、会うんだ。そして、やり直す)


 聖なる台座ヴィヴァルターロの前、ほっとしたように微笑んで。

 光の中に消えた少女。


(――あんたが、魔王になる前に)


 聖剣がわずかに振動した。

 その刃の中に、誰かの祈りが残響している気がした。


 ――プレケリア。

 それは願いの歌、想いの記録。

 問い掛ける者がいる限り、世界はそれに応える。



「行くか」


 ロイクは旅装束を纏った。

 長靴の紐を締め、聖剣を腰にき、外套を纏う。


 丁度、その瞬間。

 部屋の扉が叩かれた。


「わたし、パンドラです。少しいい?」



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