ロイクは扉を開けて、パンドラを招き入れる。
「どうしたんだ。こんな遅くに」
「これを、渡そうと思って」
パンドラが差し出したのは、小さなブローチだった。
銀色の、少し
――これは、強い記憶の残響です。
聖剣が震えた。
微かに旋律めいた音が響く。
共鳴。
「大切なものなの。でも――特別な意味を
パンドラはロイクを真っ直ぐに見つめた。
エメラルド色の眸がロイクを射抜く。
「あなたに必要だと、思ったの」
理由もわからないのに、パンドラは確信していた。
きっとこれが、鍵となる。
「――俺が
パンドラは頷いた。
世界と一つになったことがある存在。
それ故に、わかることがある。
「きっと、道を示してくれるから」
「ありがとう」
ロイクはブローチを受け取ると、襟元に留める。
「借りていく。いつか、返す」
「……ええ。待ってる」
言葉は交わさなかった。
春とは言え、夜の
帰るように促したが、パンドラは見届けるのだと動かなかった。
ロイクは軽く溜息を吐くと、台座に、
(時空は川のように流れている)
(分岐は支流。俺は、そこに飛び込むだけだ)
何度も繰り返し思い描いては見るものの、何分初めての経験だ。
勝手がわかるはずもない。
(遡った先が、彼女のいた世界に届くと信じて――)
――行きましょうか。
ロイクは聖剣を抜いた。
光を集めて固めたような刀身が、光そのもののように輝いた。
ロイクの襟元のブローチが、聖剣に共鳴し、微かに旋律を奏でた。
パンドラが見守る先、聖なる台座が分裂したように見えた。
ふたつ、みっつ、いや……やはりひとつ。
ぶれている。
水の音が聞こえる。
こぽこぽと、湧き出るような音だ。
始めこそ、さらさらとした小さなせせらぎだったが、だんだんと激しくなっていく。
ざあざあと絶え間ない水音が満ちて来る。
そしてごうごうと激しく、重く。
「……すげえ音してませんか、聖剣さん」
――時空の流れは川のようなもの。可愛い小川ではありえません。
「…………そっすね」
――はい。気合を入れてください。途中で気を逸らせば、どこへ流れ着くともわかりません。あるいはそのまま藻屑となり、消えてしまうかもしれません。
「文字通り水の泡、か」
――はい。その通りです。
パンドラが心配そうな表情でロイクを見た。
ロイクは微妙に不安そうな顔でパンドラに頷く。
「……まあ、行ってくる」
「気を付けて」
そしてロイクは、外套を翻し、抜き放った聖剣を右手に。
遥か時空の彼方へ。
アムルが魔王となる前の、
ロイクは激流に呑まれ、回転しながら押し流されていた。
上も下もわからず、視界は泡と水と影が、ぐるぐると渦を巻いている。
――気合を入れなさい。辿り着くのです。
聖剣の言葉に応答する余裕もないほどに。
ロイクは時空の川の流れに、木の葉のように翻弄されていた。
――思い描くのです。共鳴を聞きなさい。貴方を待つ者の所へ、導く音が聴こえるはずです。
(この轟音の中、無茶言うな!)
内心叫びながらも、ロイクは右手の聖剣をしっかりと握り締め、振るう。
少しだけ、川の流れが緩くなったような気がした。
ロイクは水の中に居た。
一面の青だ。
近くは透き通った水色から、遠くは真夜中のような深い青まで。
手足に絡みつく水は、重い。
気を抜けばすぐにも流されてしまうだろう。
ロイクは目を閉じ、意識を集中させた。
襟元のブローチが鈴のような音を鳴らしている。
その時。
優しい歌が、聞こえたような気がした。
(――アムル)
ロイクは流れに逆らって、泳ぎ出した。
阻む水の壁を聖剣で切り裂きながら、遡っていく。
(今、行くから)