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第7話 跳躍の先に

 唐突に水音が途切れた。

 次の瞬間、視界が真白に弾ける。

 音も、重力も、一瞬消失した。


 背中を押されるような衝撃と共に、ロイクは「外」へと投げ出された。


 勢いあまって膝をつく。

 硬い地面の感触が、ロイクを現実に引き戻した。

 ロイクは詰めていた息を吐き、地面に手をついて、ゆっくりと身を起こす。


(……着いたのか)


 腰にはいつの間にか、聖剣が戻っていた。


 今は夕暮れ。

 空は金から朱、そして柔らかな桃色へと、緩やかに色を変えていく。

 風が静かに頬を撫で、葉擦れの音が優しく耳をくすぐる。


 まるで絵画のような光景だった。

 作り物のように、美しく穏やかだった。


(どこだ、ここは――)


 夢か幻では無いかと錯覚するほどだ。

 ロイクは呆然と見蕩れていた。


 その時、鐘の音が響き渡った。


 少年少女たちの笑い声が混じる、朗らかなざわめき。

 ロイクは思わず顔を上げた。

 そこには、堂々たる威容を湛えた生命の大樹ヴィヴァルボルそびえていた。


(聖都……! だが大聖堂じゃない。どこだ?)


 歩き出そうとしたロイクは、目の前に突然現れた人影とぶつかった。

 短い悲鳴を上げて、転びそうになった相手をロイクは咄嗟に支える。


「すまない、不注意だった。大丈夫か?」

「いえ、こちらこそ失礼致しました。……ですが、あの」


 腕を掴まれたまま、聖詠者オラシエルは、怪訝そうにロイクを見つめた。


「貴方、どなたですか? この学び舎ヴィラリアに、何の御用で?」


 ロイクは目を瞬いた。


学び舎ヴィラリア……? 学び舎か!)


 この場所が、聖都アルセリアに在る初等養成院だと気付くのに、暫しの時間を要した。


「あー、俺はロイク・ブロサール。旅人だ」


「旅人……ですか。ならば聖都へは観光で? 大聖堂への向かわれる中、迷い込まれたのでしょうか。通行証拝見できますか?」


 ロイクは通行証を躊躇ためらい無く差し出して、そして気付いた。

 手が震える。

 ロイクはのだった。


(勇者認定前だったら使えないどころか、詐欺罪でしょっ引かれるんじゃないのか?)


 逮捕どころか、異端認定もあり得る。

 だが、聖詠者は通行書を確認した途端、態度をがらりと変えた。


「勇者どのでしたとは。大変失礼を致しました。最初から名乗ってくだされば宜しいのに」

「いやあ、はは……まだ、慣れなくてな」


 引き攣った笑いを浮かべて。

 けれどロイクは、自分の顔から血の気が引くのがわかった。

 背中に冷や汗が伝う。


「勇者が認定されてるってことは、魔王はどうなってる!?」


 ロイクが居た世界線では、魔王の出現後にロイクが勇者として選びだされた。

 既に魔王がこの世界に現れた後だったなら、この跳躍は意味のないものになる。


(しくじったか――)


 ロイクは歯噛みした。

 だが。


「魔王とは? 魔王が現れるとのお告げがあったのですか」


 聖詠者オラシエルの答に、ロイクは息を呑んだ。

 勇者が現れたのに、


(どういうことだ)


 魔王が出現したからこそ、聖剣は勇者を選んだのではなかったか。


 焦るロイクに、聖剣が静かに語り掛けた。


 ――世界が、書き換えられたのです。





 ロイクは、学び舎の門を出た所で足を止めた。

 風がどこか懐かしい匂いを運んで来る。

 視線を上げれば紅掛空色。

 ほんのわずかの間しか見ることのできない色だ。

 かすかに紅がかった淡い空色が、美しくも、どこか物悲しい。


 誰かの笑い声が聞こえて来た。

 少女たちだった。まだ幼さを残しながらも、快活で瑞々しい。

 その中に、彼女は居た。


 沈みゆく夕日の欠片を反射して、亜麻色の髪が燃えるように輝いていた。


(――アムル)


 そしてその横にはパンドラが居た。

 思わず声を掛けそうになった。

 だが、今の彼女たちは、まだ何も知らない。


 ロイクの存在も。

 世界の理も、献身の儀も。

 自分たちの未来のことさえも。


(絶対、あんたを魔王になんか、させないからな)


 強く、強く思った。

 願った。


 未来を変えてみせる、と。


 彼女は振り返らない。

 ロイクに気付くことは無い。



 世界の行く末は、まだ、定まっていない。


(ここからだ)

(ここから、始めるんだ)


 ロイクは強く、聖剣の柄を握り締めた。



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