ロイクが図書塔に足を運ぶのは、もはや日課になっていた。
静けさの中で書物をひも解いていると、心が僅かに落ち着く。
この場所では、生徒たちの話し声が壁越しに届き、時間が穏やかに流れている。
「勇者さん、今日もですか?」
「もう、住んでるって噂ですよ?」
すれ違いざまに囁かれる声も、今では慣れた。
ロイクは軽く手を振って返す。
生徒たちと当たり障りのない会話をし、学び舎の雰囲気を把握する。
そして、不自然にならない程度に、アムルとパンドラと交流を図る。
何かの予兆を、見逃すことのないように。
アムルの無邪気な笑い声が響くたび、胸の奥がざわついた。
そこには、かつての「魔王」の影は
パンドラもまた、何も知らぬまま、穏やかな日々を過ごしている。
けれど、二人の視線が偶然重なるたびに、何かが――
(そういえば、
ふと、ロイクの思考が過去へと手を伸ばす。
かつての時空では、魔王アムル覚醒のきっかけともなった
そしてその後に起きた、導師イアサントによる断罪劇――
ロイクはシュゼットから聞いた話を思い出す。
(……シュゼットも、今はどうなってる?)
彼女の存在は、あの時空で重要な証人だった。
今、この世界で彼女がどう在るのか。
エレクシア・ヴィアヴォルム――ヴィヴァ教団と、もしや事を構えるとなった時に、状況が把握できていないのは、戦略的にまずいだろう。
――大聖堂へ向かいますか?
聖剣が促すように囁いた。
ロイクは読んでいた本を棚に戻すと、腰を上げた。
(そうだな。様子を見に行ってみるとするか)
聖剣の勇者、として、ロイクの大聖堂への訪問は歓迎された。
館内の自由な閲覧、図書室の使用も許可され、ロイクは少しの罪悪感を覚える。
(敵対するかもしれないのに、悪いな! ホントすまん!)
――止めますか?
(いいや、行く)
――無駄な葛藤でしたね。
(うるせえ)
ロイクは大聖堂の中を歩きながら、至聖導師の名を確認した。
その名を「ピエリック」。
かつての時空で暗殺されたはずの至聖導師が、ここでは生きている――
そして、彼女の姿もあった。
書簡を抱えて、まっすぐな足取りで廊下を進むシュゼット。
その姿は変わらず真面目で、芯の通った様子だった。
ロイクは咄嗟に視線を逸らす。
目が合えば、過去の記憶が押し寄せてしまいそうだった。
「……あの、シュゼットさんという方をご存知ありませんか?」
精一杯の演技だった。
過去を知らない彼女は、ただ不思議そうに首をかしげるだけ。
同姓同名の知人を探していた――ということにして、やり過ごした。
(至聖導師ピエリックは健在。魔王アムルと出会わなかったから――)
あの連鎖は、断ち切られている。
だが、
(……もし、あの悲劇を回避できるなら)
その可能性に胸が震えた。
けれど、それは同時に「誰かの運命を変える」ということでもある。
そしてそれが、必ずしも幸福をもたらすとは限らない。
――この時空の未来は、まだ定まってはいません。
聖剣の声は静かだった。
けれど、その言葉には、確かな警告があった。
(選ぶのは、俺たちなんだな)
――はい。過去を知る者には、その選択に責任が伴います。
(だったら、今度は守る。誰も失わせない)
その誓いが、ロイクの胸に刻まれる。
(でも、アムルに関係ないことで、ピエリックが倒れる可能性もあるんだろ?)
――その通りです。
個々の魂の本質は、変わりません。たとえ別の世界であっても、似た選択をとることがあります。
(魂の本質、か……)
ロイクは聖剣の柄を強く握りしめた。
その手の中で、聖剣が微かに震えていた。
――記憶を失っても、何度でも同じ道を選ぶ者がいます。
ですが、それを
「だからこそ、問い掛けるんだな」
――ええ。貴方の問いは、運命への
その言葉を胸に、ロイクは顔を上げた。
この世界を見据える眸に、確かな意志が宿っていた。