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第5話 揺らぎの予兆

 パンドラが階段を踏み外した。


「危ない!」


 アムルは咄嗟にパンドラの腕を掴んだ。

 その瞬間、パンドラの中で強烈な既視感が走り抜ける。


 パンドラは目を見開いてアムルを見上げ。

 アムルは冷や汗の滲んだような表情をして、口元を歪めていた。


 視線が交錯した瞬間、息をすることさえ忘れていた。

 アムルのてのひらの感触が、やけに鮮明だった。

 冷たくもなく、熱くもない――けれど確かに、感覚。


 その温もりが、いつか遠い昔に、自分を支えてくれた何かを思い起こさせた。

 ただ、それが何なのかが掴めない。

 まるで霧の中の光のように、手を伸ばせば指先から、するりと逃げていく。


「もう、びっくりさせないで。落ちるかと思った」

「……あ、ええ、ごめんなさい。ありがとう。助かったわ」


 パンドラは何かを叫ぶ寸前で、止まっていた。

 何を叫ぼうとしたのか、わからない。

 けれど、胸の奥がひどく切迫していたのは確かだ。


「パンドラ?」

「……ちょっと、ね、びっくりしたの。それだけ」


 はやる鼓動を、笑って誤魔化した。

 アムルは心配そうに眉を寄せる。


「強く掴みすぎちゃったかしら。ごめんね」

「ううん、大丈夫」


 パンドラは曖昧に、首を振った。


(――今のは、なんだったのかしら)




 回廊で、あるいは中庭で。

 もしくは夢の中で。

 パンドラは「黄金の林檎」の幻を見るようになっていた。


 誰にも見えないそれは、パンドラにだけ語り掛けるようだった。

 木漏れ日の中でだけ見えるそれは、鈴のような音と共に姿を見せる。


 樹から落ちて、転がって――

 林檎から零れた光は、不可解な文様を地に描く。


 その文様は、何かを封じた「輪」のようでもあり、「鍵穴」のようにも見えた。

 その光は瞬く間に淡く揺らぎ、そして消える。

 言葉ではなく、形で語るその光の意味が、何故だかと感じられた。


 林檎の果皮は透き通っていて、内側に星空のような輝きが宿っていた。

 触れられそうで触れられない。

 そっと手を伸ばしても、指先はその光をすり抜けてしまう。


 それでも、何度でも林檎は現れる。

 まるで、「思い出して」と告げるように。


 そして、一瞬だけ。不思議な音が響く。

 水音のようにも思える。

 胸に響く、無音の振動のようにも感じられる。

 何とも表現しがたいその音は、パンドラにしか聞こえない。


 パンドラはアムルに林檎の話をしなかった。

 アムルはアムルで、自分の中に芽生える違和感に蓋をしていた。


 お互い、何でもないように、他愛のない会話をして。

 平穏に過ごしている。

 けれど、会話の端々に重なり合う既視感が、少しずつ増えていくのを、二人ともが感じていた。


 一陣の風が吹いた。


 その風には、名前のない香りがあった。

 乾いた紙と草の匂い。

 そして、どこかで嗅いだことのある清らかな香り。


 風が通り過ぎたあと、一瞬だけ、周囲の音が遠ざかる。

 その静寂の中で、心臓の鼓動だけが耳に響いていた。

 時間がわずかに軋んだような気がした。


 風は呼ぶ。

「思い出せ」と。

「繋がれ」と――

 声にならない声が、確かにそこにあった。


 二人は同時に振り返った。

 そして、ゆっくりとお互いに見つめ合う。


「何だろう……呼ばれた、気がしたわ」

「どうしてかしら。懐かしい……」


 どちらかともなく手を繋いだ。

 そしてきつく握り返す。

 離そうとしても、離れないように。


 ふと、パンドラは気づく。

 この手を、以前にもこうして握り返した記憶がある。

 たった一瞬――

 でも確かに。

 同じ温もりを知っている。


 アムルもまた、何かを思い出しそうな表情をしていた。

 けれど、言葉にはならなかった。


 それでよかった。

 今はまだ。




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