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第6話 イアサントの焦燥

 胸の奥に、わだかまるようなざわめきがある。

 それは理性では到底扱えぬ、獣じみた本能に近いものだった。


 夢を見たわけでもない。啓示を受けたわけでもない。

 それなのに、何かがという感覚だけが、べったりと張り付いて離れない。


 何故か、学び舎ヴィラリアの様子がひどく気掛かりだった。

 毎日のように導師アルコンブノワを呼び出しては、学び舎の様子を事細かに報告させた。


 気に掛かると言えば勇者ロイクもそうだ。

 勇者ロイク。名は記録されている。資格も認められた。

 だが、その瞳の奥に宿るが、イアサントにはどうしても許容できなかった。

 あの男は、何かを――


 あの青年は、何が目的で聖都アルセリアを訪れたのだろうか。


 勇者であるならば、、各地を行脚あんぎゃしてしかるべきだと思う。

 だが、今回の勇者選出は不可解なことが多過ぎた。


 世界の危機に現れると言われる勇者が、突然出現した。

 世界に何の予兆も無く、生命の大樹ヴィヴァルボルからの啓示も無く、突然に。


「魔王でも降臨するのではないですか?」


 などと軽口を叩く聖詠者オラシエルを叱責した。

 何かがひどく不愉快だった。


 魔王という存在に、異常なほどの嫌悪感が込み上げる。

「魔王など影も形もない」と、誰もが口を揃える。

 だが、イアサントの心には奇妙な恐怖があった。

 何の根拠もない。

 それでも、魔王と聞くたびに、喉の奥に酸っぱいものが込み上げてくる。

 まるで、が、無意識の底で警鐘を鳴らしているようだった。


 勇者は何故、選出されたのだろう。

 自問を何度繰り返しても、答には辿り着かない。


(――何が起こるというのだ)


 イアサントが求めるものは、絶対的な秩序だった。

 人々の恐れを収め、信仰によって世界を律する構造。


 だが、その均衡は、いま静かに、目に見えぬかたちで崩れ始めている。

 近頃、教団内で「新しい祈りの形」を唱える者が増えていた。

 公式には禁じられているはずの「古歌」あるいは「古祈」――

 プレケリアの断片に、無自覚に触れる者たちが現れ始めているのだ。

 些細な逸脱は、やがて波となる。


 導師アルコンシプリアンと、その周囲の若手の聖詠者オラシエルたちの間では、「教義の柔軟化」すら論じられていた。

 それはイアサントにとって、秩序への反逆に等しかった。


(このままでは、教団そのものが……砕ける)


 だからこそ、勇者の存在が不穏なのだ。

 力を持ち、魂にを刻まれた者が、秩序の外から現れた。


 導師イアサントは唇を引き結んだ。

 崩壊の兆しは、すでに始まっている。


 かつては、彼が一声発すれば、誰もがその命に従った。

 だが最近では、幾人かの導師アルコンは目を逸らし、会議の席でも言葉少なに退席する者が増えている。

 表立った反論はない。

 だが、沈黙の中に確かながあった。

 導師アルコンシプリアンの周囲に集う若手聖詠者オラシエルの中には、明らかに「古歌」を口遊くちずさむ者もいる。

 彼らは口を揃えてこう言うのだ。


「夢で聞いたのです」

「胸に自然と浮かぶのです」


 まるでに教えられたかのように――。

 それを「信仰の新しい芽生え」と捉える者たちもいた。

 しかしイアサントにとって、それはただの逸脱であり、背信だった。


(秩序は、緩めれば崩れる)


 その思考の先にあるのは、監視と統制。

 イアサントはすでに、信頼の厚い幾人かの聖詠者オラシエルに密命を下していた。

「異端の兆し」があれば即刻報告せよ――と。


 かつての魔王も、こうして生まれたのではないか?

 世界は形を変え、同じ轍を踏もうとしているのではないか?


(……運命は、繰り返す)



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