アムルは、違和感を抱えていた。
それは身体の不調ではなく、言葉にできない「心の揺らぎ」だった。
時折、自分が自分で無いような感覚に襲われる。
まるで誰かの記憶をなぞっているような……そんな不思議な感覚。
知らない歌を、ふと
どこかで覚えたはずもない旋律。
誰にも教えられていないはずなのに、息を吸えば自然と紡がれてしまう。
更に不思議なのは、その旋律が安心感を与えてくれているということだった。
言葉の意味もわからない。
でも、音の流れが心を撫でて、胸の奥の「焦り」を静めてくれる。
そう、焦り。
今すぐにでも、何かをしなければならない。
間に合わなかったらどうしよう。
――そんな衝動に幾度も襲われる。
理由はわからないのに、時折、胸がざわつく。
それと同時に、パンドラが突然遠くに行ってしまうような――
不安に満ちた夢を見る日が増えた。
そして、勇者。ロイク。
あの青年が向けてくる視線には、時折、言葉にならない何かが混じっている気がする。
まるで、自分の知らない「何か」を知っているかのような――
懐かしさと痛みとが滲んだような眼差し。
(何故……そんな目でわたしを見るの?)
けれど、問い掛けることはできない。
アムルが視線を向けると、ロイクはすぐに
いつもの、飄々とした掴み所の無い笑顔を。
わからないことだらけだ。
それでも、旋律が流れるたびに。
世界がほんの少しだけ、優しさを取り戻す気がした。
そう思って、アムルはまた、首を傾げた。
(変なの。世界を冷たいだなんて、思ったことは無いのに)
勇者が、あの人が、現れてからだ。
何かが
闇に沈んだ世界。
どこまでも黒く、冷たく、けれどどこか、懐かしい。
気が付いたとき、アムルはそこに浮かぶようにして立っていた。
足元には、水のような、もしくは鏡のような面が広がり、踏みしめるたびに光の波紋が走る。
その面は揺らいでも、深く沈むことはなった。
「……ここは……?」
応えは無かった。
ただ、風が吹いた。
音のない風。
それなのに、確かに「歌」を連れてくる。
「そらよ だいちよ もりよ かぜよ
わがいとしき ひとにこそ
あはれ やさしくあれかし
きずつくことなく
まよふことなく
ひかりのうちを あゆましめたまへ」
それは自分の声だった。
けれど、自分ではない「誰か」が歌っているようにも聞こえた。
次の瞬間――
炎が、視界を覆った。
黒く燃える炎は、輪郭が緑に妖しく揺れている。
その中心に、誰かが立っていた。
「やめて……! もう、誰も、傷つけたくない……!」
悲鳴が響いた。
それは自分の声のようで、けれどどこか他人の絶望のようだった。
炎の向こうに、光が見えた。
剣を構えた誰か。
名は、わからない。
けれど、その眸が、自分を見ている。
怒りと、涙と、愛しさが入り混じったような目で――。
「勇者、さん……?」
名を呼びかけたその瞬間、世界が砕けた。
光と闇が反転し、音が消える。
アムルは、ただひとり、無音の世界に投げ出された。
そして、耳元に声が囁く。
――問い掛けよ。名もなき祈りよ。
忘れられし魂よ。
今こそ、目覚めよ。
アムルは、胸を押さえて
苦しい。
後から後から涙がこぼれてくる。
どうしてこんなにも――哀しいのだろう。
確かに「誰か」が自分を呼んでいた。
何度も、何度も。
そして最後に見えたのは、金色の光。
その光の中で、誰かが手を差し伸べている。
(……パンドラ……?)
届きそうで、届かない。
けれど、手を伸ばさずにはいられなかった。
その瞬間、アムルは目を覚ました。
右手を、天井に向かって差し出すようにして。
アムルは、ゆっくりと呼吸を整えた。
夢だった。
けれど、胸の奥がまだ焼けるように痛い。
「……どうして、泣いてるの、私……」
頬には、涙の痕がしっかりと残っていた。
夢の内容は
全てが確かに「在った」のに、言葉にはできない。
――でも、あの旋律だけは、まだ耳に残っている。
アムルは、目を閉じて静かに呼吸をした。
それは、祈りだったのだろうか。
それとも、誰かが自分に向けて届けてくれた、遠い声――?
「……パンドラ……ロイク……」
ふたりの名前が、自然と唇から零れた。
理由はわからない。けれど、今は――
「……会いたい、よ」
アムルはそう小さく呟き、まだ濡れたままの頬に、手を添えた。