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第10話 不穏の足音

 深夜の大聖堂。

 蝋燭の灯が、石壁に揺らめいていた。


 導師アルコンイアサントは、書見台に置かれた文書に目を通していた。

 若手の聖詠者オラシエルが、最近頻繁に「夢」の報告を行っている。

 その夢は、どれもが奇妙な一致を見せる。


 ――水面のような大地。風の旋律。黒い炎。


(まさか……そんなはずはない)


 夢など、心の迷い。

 そう切り捨てるには、あまりにも多すぎる報告数だった。

 しかも、その中には、かつて「古歌」と呼ばれ、封印された祈りに類似した表現も含まれていた。


「プレ……ケリア、だったか。まったく、悪しき幻想だ」


 イアサントは低く呟く。

 その名が口にされるだけで、胸にざわめきが走る。

 言葉では説明できない嫌悪と、怯え。

 彼は知らない。

 しかし、魂の深層は覚えている。


 ――その名が、如何いかに大いなる力を秘め、どれほどに世界を歪めたかを。


導師アルコンイアサント。ご報告が」

 イアサントの元へ、密かに配属された聖詠者オラシエルが歩み寄る。


「今宵、学びヴィラリアの観測において、奇妙な波動が確認されました」

「波動……?」

「はい。三点より、同時に発せられた魂の共振……。一種の現象と思われます」

「……誰だ」


「詳細は特定できておりませんが……恐らく、勇者ロイクと、その周辺にいる二名――」

「……魔王の名は、出たか?」

「……まだ、です。しかし、兆しはあります。夢の中で名前を呼ばれたと報告した者も」


 イアサントは目をすがめた。


(やはり……勇者が引き金か)


 無垢な祈りは、やがて扉を開く。

 世界の奥に封じられた、かつての「真実」を。

 それを、今こそ「秩序」の名のもとに封じねばならない。


「よろしい。……観測を続けるように。すべてを、記録に残せ」

「かしこまりました」


「そして、時が来たら――異端の芽を刈り取る準備を。静かに。確実に」

「……はっ」


 若き聖詠者が静かに退室した。

 イアサントは、一滴の蝋が静かに垂れ、書見台の木を焦がした。

 イアサントは視線を逸らさなかった。


 目の前でのに、それを消す術がないことに、彼は気づいていない。


 秩序とは、絶えず乱れを拒む意志の集積である。


(古き祈りなど、不要だ。プレケリアなどという幻影に、惑わされる者が増える前に――)


 そしてこの夜、誰かの夢に、「名」が落ちた。

 まだ言葉にはならない。

 だが、確かに心が、それを



 イアサントは、滅多に声を荒げることは無い。

 だがその沈黙こそが、最も冷ややかな「拒絶」として知られている。

 今、その沈黙が教団内に広がり始めていた。


 導師アルコンシプリアン――

 古来の教義にとらわれぬ、柔軟な解釈を提唱する温厚な導師。

 至聖導師ピエリックからの覚えもめでたい。

 若手の聖詠者オラシエルから厚く信頼されており、その輪は学び舎ヴィラリアにも密かに広がっていた。


「祈りとは、本来、誰かの幸福を願うもの。

 過去に縛られるより、今、響く声に耳を傾けるべきです」


 彼の言葉に異を唱える者は少なかった。

 だが、イアサントにとってそれはだった。


 最初にのは、シプリアン派に連なる、若手の白衣者カンドレル――ファビアンだった。

 特に異動の理由は告げられず、北方の寒村に「転任」させられた。


 次に、聖詠者グレゴリが「叱責」された。

 夢の報告書に「水の大地」「風の祈り」と記したことが原因だ。


「貴殿の心に、余計な幻想があるのだろう。

 清めを受け、祈りの本義を学び直すのだ」


 イアサントの声は柔らかく、しかし「拒絶」の冷たさを孕んでいた。

 聖堂内では密かに「目をつけられた者リスト」が囁かれ、誰が誰を裏切るか――

 緊張と猜疑の空気が満ちていく。


「導師シプリアン、彼を聖導師議会サンクタ・アルコニスから一時的に外すことを提案する」

「――理由は?」


「教義への揺らぎ。他に言葉は要るまい」


 彼にとって大事なのは「崩れる前に封じる」こと。

 言葉ではなく、兆しの段階で摘み取る。それが秩序の務め。


 教団は、まだ形を保っていた。

 けれど、内部ではすでに「線」が引かれている。

 誰が秩序に従い、誰が「風に耳を傾ける者」か――

 イアサントは、それを明確に把握しようとしていた。


 その夜、シプリアンの私室には、匿名の文が置かれていた。

 封筒の中には、こう書かれていた。


「あなたの周囲ではすべて記録されています。

 気をつけなさい。夜は、長い」


 静かな脅し。

 そして同時に「排除」の合図でもあった。


 イアサントは知っていた。

 彼らは、また同じ過ちを繰り返そうとしている。


 だからこそ――祈りの復活を、許してはならない。



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