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幕間4 揺れる秩序と満ちる波紋

 大聖堂地下、封印区画。

 水の祠にて「水の神詩の断章」が顕現したというしらせが、観察導師ノクティアルコンを通じて、教団中枢に届いた。


 女神サリアニスが、かつて人に裏切られた神であること。

 その心の痛みを抱きながら、なお「祈り」にかすかに応じたという記録。

 そして、アムルという少女の言葉によって、わずかながら共鳴が起きたこと。


 それらすべてが、教団の一部からは見做みなされた。



「……愚かなる連鎖である」


 聖導師議会サンクタ・アルコニスの席にて、イアサントは書簡を一読し、感情を押し殺した声で告げる。


「風と火に続き、水の神詩まで……」


 彼は断章を、教義の制御外で独立して「動き始めた記録」であると捉えていた。


「かつて教団が封じた神性の記憶が、今、再び目覚めようとしている。教義は“今の祈り”を支えるための器だ。それが崩れれば、すべてが……」


 イアサントは静かに立ち上がった。


「私が提案するのは以下の三つである。

 ひとつ。水の祠以降の三人の行動に“即時制限”を掛けること。

 ふたつ。黒き御使い《モルタエル》の出動準備を正式化すること。

 みっつ。教義再定義のため、緊急審理会を開くこと。

 以上三点を、速やかに行うべきであると主張する」


「待ってください、導師アルコンイアサント。祈りが応じたのです。ならば、それを聞くべきは我々ではありませんか?」


 学び舎ヴィラリアの長でもあるブノワは、議場で静かに声を上げた。


「異端であるかどうかの判断を、結果の前に下すべきではありません。今はまだ、“記録”でしかない」


 そして傍らにいたシプリアンも補足する。


「神詩の断章は、誰かの問いが応えた“記録”に過ぎません。異端ではなく“変化”と見るべきでは?」


 議場は揺れた。

 だがその揺れは、分裂の前兆でもあった。


 議場が張り詰めた空気に包まれる中、唯一人、発言しなかった人物がいた。

 教団の頂点に立つ至聖導師グランダルコンピエリック――

 神と人との間に立ち、「祈りとは何か」を問い続ける者。

 彼は、イアサントとブノワの応酬を沈黙の中で見つめていた。


「……断章の出現が、三度目となりました」


 ピエリックが口を開く。

 その声は低く穏やかで、しかし強く響いた。


「火、水、そして風……。どの祠も、我らの“教義”に沿って動いたのではありません。問われたのは、祈りそのものでした」


 イアサントが口を開きかけたが、ピエリックは手を上げて制した。


「導師イアサント、導師ブノワ……。今ここで断ずるのは早計です。我らが裁こうとする“祈り”の形が、すでに変質しているかもしれぬ以上……それを“見届ける”こともまた、教団の務めでありましょう」


 彼の言葉には、命令の力ではなく、洞察の重みがあった。


「私は、中立を保ちます。この祈りが、やがて教団を支える柱となるのか、あるいは崩すくさびとなるのか……その答えは、まだ出ておりません」


 そして、静かに付け加えた。


「ですが、私は、断章を恐れはしません。むしろそれは、神が人の声を今もなおという、沈黙の証だと考えます。」


 議場が静まった。


「……それは、教義の再定義を意味しますか」


 イアサントの声には棘があった。

 だがピエリックは首を横に振った。


「意味するかどうかは、祠が決めることです」




 黒き御使いモルタエルを預かる封印区画の奥、格子の前に立つ観察導師ノクティアルコンは、沈黙を守っていた。


「……水の神が応じた、か。……祈りの意味が変わるなら、光の姿もまた、誰かの知るそれとは異なるのかもしれん」


 誰にも聞かれぬ声で、彼はそう呟く。

 だが、黒き御使いの起動は、まだ保留されている。


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